回想の矢野潤先輩

回想の矢野潤先輩

法名解説


 本来矢野家の宗旨は臨済宗です。ですから矢野さんの葬儀は臨済宗でなされるべきだったのですが、急のことで手配が付かず、なるべくなら日学同OBの手でお送りしたいと考えて、ご実家矢野家の御当主であるお兄様のご了解を得て、私府越が真宗大谷派(浄土真宗)の儀式で葬儀を行いました。そのため法名(戒名)も浄土真宗系の流儀でお贈りしてあります。
 他宗と浄土真宗系の流儀の違いは、法名に位号と呼ばれる居士・大姉や信士・信女が付かず釋号が入ることにあります。これは我々が僧侶になる儀式(得度式)に準じた帰敬式を、一般の門徒にも生前に受けさせ、僧に準じた位を与えることから来ております。またいわば装飾に当たる部分も、院号を付けるのみで道号や譽号などがなく、シンプルで字数も男性で6文字、女性で7文字しかありません。ですから矢野さんの法名は浄土真宗では最高の格式になっています。

 さて法名の字をとるに当たって、一番頭を悩ませたのは、矢野さんの業績の中で何を表現するかと言うことでした。しかし矢野さんの心に一貫してあったのは祖国日本への愛であり、いかなる時にもこの国を救うにはいかにすべきか考えておられたことを表すべきだと考え、経国院釋法潤とお贈りしました。
経国とはまさに国を想い国の行く末を図ることであり、そのために正義(法)を世の中に恵み潤すという矢野さんの人生をそのままに表現したつもりです。

 後日談ですが、片瀬先輩から経国院とは北一輝の院号でもあると教えられ、時代は違っても、国を想い革新の志に燃えた青年たちのカリスマは、奇しくも同じ院号が付くものかと感激した次第です。また矢野さんのお墓が奥様のご実家のそばのお寺に造られ、納骨に参ったところ、そのお寺が真宗大谷派のお寺で、やはりこれもご縁のあったことだったのかと、縁の深さに感銘しました。

府越義博



 新民族主義運動の創建者矢野潤先輩が逝去されたのは平成六年八月八日であった。病名は末期ガンで時刻は午前九時五十三分、享年五十四歳であった。この年は今でも記録に残る異常に暑い夏であったが、この日はそのなかでも特に暑い日であった。

 真夏の太陽が容赦なくかんかんと照りつけたあの日のことは皆様も今も鮮烈に記憶されていることと思う。急逝の報を知って生前矢野先輩の薫陶を受けた日学同OBが全国から東京に駆けつけて変わり果てた骸に取りすがって号泣した。
 葬儀は八月十日午前十一時から東京都文京区内の自宅で矢野家ならびに日本学生同盟の合同葬として執り行なわれ、前日の通夜と合わせ優に四百人をこえる会葬者を数えた。

 享年五十四歳であったから、そのあまりにも早い突然の訃報に接し我々門下生の誰もがまず驚愕した。我々門下生はそれぞれ矢野先輩の薫陶を受けた時期こそ異なるが、先輩の創建された日本学生同盟の大緑旗の下青春の真っ盛りの時期、祖国日本の革新にむけて熱い情熱をたぎらせ共に闘った。矢野先輩の祖国日本の真姿顕現にむけた熱誠が、生まれも育ちも異なる我々をひとつの魂の下に結び付けたのである。

 日本学生同盟は間違いなく「魂の共同体」であったのである。そして矢野先輩の謦咳に接し薫陶を受け公私に亘る御指導があればこそ、我々は今日あるを得たのである。顧みて一個の人格の感化力に改めて驚嘆せざるを得ない。

 矢野先輩はそれまで大学院生として学究への道を志していたが、昭和四十年母校早稲田大学が学費値上げに端を発し左翼暴力学生の跳梁跋扈するところとなるや、決然ペンを折って母校の学園正常化運動に奔走。
 翌秋早稲田大学の学園正常化運動が成功を収めるや、左翼暴力学生の全国的跳梁に対抗して全国の良識派学生の一大糾合を企図し日本学生同盟を創建。単なる反左翼の運動に止まらず、大東亜戦争の敗戦によって歪曲された祖国を真にあるべき正しい日本に回帰すべく大車輪の運動を開始する。矢野先輩の真の偉大は実にこのところにあった。

 日本学生同盟創建によって巻き起こった新しい学生運動の波は津波の如く忽ち全国を席巻。単なる「反左翼」の運動から「国家革新」を目指した新しい民族運動の創始は、今なお特筆大書される偉業として戦後国家主運動史上に不滅の光芒を放っている。
 とりわけ日本学生同盟の創建から草創期における矢野先輩の縦横無尽の機略と獅子奮迅の活躍は永遠に記憶され語り継がれて行くことであろう。

 矢野先輩が一切の私事を犠牲に供し私財を投じて創始された全く新しい民族運動は、その後学生運動から青年運動へ順次段階的に発展し、大緑旗は担い手を次から次へと変えて今もなお青年学生に担ぎ継がれている。
 三島・森田義挙が起こるや将来の展望を睨んで三島由紀夫研究会をいち早く創始したこと、左翼に壟断された文芸運動を正しい道に引き戻すべく創刊した雑誌「浪漫」の発刊なども特筆される偉業である。
 あれ程荒れ狂った左翼革命運動が急速に終息し、祖国の真の再生を目指す興国運動が政治・文芸・論壇などで沖天火を上げる今日の形勢を見るにつけ矢野先輩の慧眼にはほとほと感嘆するばかりである。

 矢野先輩の早逝は余りにも惜しく天を恨む他ないが、幽明境を異にした今となってはその創始された未完の事業を継承し、必ずや真正日本回復のその日まで闘い続けることしかない。矢野先輩の謦咳に接し薫陶を受けた者達が在りし日のその一言一句を想い起こし、その記憶を綴ることは今となっては亡き矢野先輩の恩義に報いる最大の供養となろう。
 それはまた、かつて若き日の自らの青春を綴ることであると同時にこれからの己れの生き様をなぞることでもあろう。かかる趣意に立ってこの場を開設するものである。

林房雄先生と矢野先輩


 日学同を最初に熱烈に支援したのは早大紛争の余波から、どうしても早稲田の合気道の先輩、くわえて雄弁会の先輩だった。海部、森、小渕、玉沢といった政治家の名が浮かぶが、くわえて多くの実業界、ビジネス界からの支援があった。しかし社会的影響力に限界があり、どうしてもマスコミで活躍する作家、評論家、大学教授、文化人、芸能人の大々的支援が必要である、という組織論的命題に達する。

 組織の発展を心配してくださった実力者の中には小沢開作、岩蒙ヒデオ氏らがいた。誰かの紹介で林房雄に会いに行った。そこから一気に文化人の支援の輪が広がり、今日の「憂国忌」の発起人につながる、実に多くの人たちと接触できた。同時に「保守系文化人」と言われる人たちにも、目に見えない多くの派閥、考え方の相違があり、それらは逐一例を挙げられないが、「倉石発言」「下田大使発言」などで、明確に相違点が浮き彫りにされた。
 たとえば竹山道雄、福田恒存、林健太郎、平林たい子といったひとびとと林房雄、三島由紀夫との距離である。さて矢野さんはといえば、「大同につけ、小異をすてよ」というのが信念で、少しくらいの路線の違いよりも、「いま大事なのは共産主義の脅威にたちむかうための反共勢力の団結なのだ」。

 そういう関係で、矢野さんの人脈は果てしなく広がり、政界のフィクサーを知っているかと想えば、戦前の「昭和研究会」の後藤隆之助、政治学者の若泉敬、作詞家の川内康範、写真家の浅井慎平、呼び屋の庚芳夫から果てはパチンコ業界の大物へと至る。
 晩年は評論家の加瀬英明氏とよく飲んでいたが、文化人とのつきあいは薄くなっていた。所詮「口だけで行動しない」人種には飽きたのかも、知れない。

同盟歌


 最初は「日本学生新聞」を通じて全国の学生から「詩」を公募し、黛敏郎氏に作曲を依頼するという構想だった。途中で矢野さんが時代の寵児・川内康範の事務所を何度かたずねるうちに口説き落とし、殆どボランティアで、川内さんが二つ作詞してくれたうえ、売れっ子の曽根こうめいなどに依頼して出来上がった。九段会館の全国大会のときに舞台にピアノをだして披露された。

 ♪♪「風が吹くなら、ふくがいい。たとえ嵐になろうとも、おそれはしないさ、この命。真の平和のためならば、何があろうと、耐えてゆく。この手でまもれ、父や母、そして愛しいあの人を」♪ ♪

 なるほど、名曲である。その後、レコード化の話はあったが、数万の販売がミニマムロットといわれ、立ち消え。しかし歌そのものはいまも歌い継がれている。


墓参



 矢野さんのお墓は没後三年して、未亡人の実家・岩手県北上市郊外に建てられた。「納骨式」には、遺族のほか、東京から府腰和尚、三浦ら。また仙台から上野、山本、そして盛岡から小針の各OBが、お盆の当日、駆け付けた。酷暑だったが、全員でお経を唱和し、納骨を済ませた。

 稲穂が風に揺れ、蝉が鳴き、のどかな田園の静寂のなか、矢野さんは永眠している。式後、実家で思い出話に花を咲かせた後、東京組は近くの夏油(げと)温泉に宿泊し、さらに連続して矢野さんの業績を偲んだ。



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