新民族主義運動の創建者矢野潤先輩が逝去されたのは平成六年八月八日であった。病名は末期ガンで時刻は午前九時五十三分、享年五十四歳であった。この年は今でも記録に残る異常に暑い夏であったが、この日はそのなかでも特に暑い日であった。
真夏の太陽が容赦なくかんかんと照りつけたあの日のことは皆様も今も鮮烈に記憶されていることと思う。急逝の報を知って生前矢野先輩の薫陶を受けた日学同OBが全国から東京に駆けつけて変わり果てた骸に取りすがって号泣した。
葬儀は八月十日午前十一時から東京都文京区内の自宅で矢野家ならびに日本学生同盟の合同葬として執り行なわれ、前日の通夜と合わせ優に四百人をこえる会葬者を数えた。
享年五十四歳であったから、そのあまりにも早い突然の訃報に接し我々門下生の誰もがまず驚愕した。我々門下生はそれぞれ矢野先輩の薫陶を受けた時期こそ異なるが、先輩の創建された日本学生同盟の大緑旗の下青春の真っ盛りの時期、祖国日本の革新にむけて熱い情熱をたぎらせ共に闘った。矢野先輩の祖国日本の真姿顕現にむけた熱誠が、生まれも育ちも異なる我々をひとつの魂の下に結び付けたのである。
日本学生同盟は間違いなく「魂の共同体」であったのである。そして矢野先輩の謦咳に接し薫陶を受け公私に亘る御指導があればこそ、我々は今日あるを得たのである。顧みて一個の人格の感化力に改めて驚嘆せざるを得ない。
矢野先輩はそれまで大学院生として学究への道を志していたが、昭和四十年母校早稲田大学が学費値上げに端を発し左翼暴力学生の跳梁跋扈するところとなるや、決然ペンを折って母校の学園正常化運動に奔走。
翌秋早稲田大学の学園正常化運動が成功を収めるや、左翼暴力学生の全国的跳梁に対抗して全国の良識派学生の一大糾合を企図し日本学生同盟を創建。単なる反左翼の運動に止まらず、大東亜戦争の敗戦によって歪曲された祖国を真にあるべき正しい日本に回帰すべく大車輪の運動を開始する。矢野先輩の真の偉大は実にこのところにあった。
日本学生同盟創建によって巻き起こった新しい学生運動の波は津波の如く忽ち全国を席巻。単なる「反左翼」の運動から「国家革新」を目指した新しい民族運動の創始は、今なお特筆大書される偉業として戦後国家主運動史上に不滅の光芒を放っている。
とりわけ日本学生同盟の創建から草創期における矢野先輩の縦横無尽の機略と獅子奮迅の活躍は永遠に記憶され語り継がれて行くことであろう。
矢野先輩が一切の私事を犠牲に供し私財を投じて創始された全く新しい民族運動は、その後学生運動から青年運動へ順次段階的に発展し、大緑旗は担い手を次から次へと変えて今もなお青年学生に担ぎ継がれている。
三島・森田義挙が起こるや将来の展望を睨んで三島由紀夫研究会をいち早く創始したこと、左翼に壟断された文芸運動を正しい道に引き戻すべく創刊した雑誌「浪漫」の発刊なども特筆される偉業である。
あれ程荒れ狂った左翼革命運動が急速に終息し、祖国の真の再生を目指す興国運動が政治・文芸・論壇などで沖天火を上げる今日の形勢を見るにつけ矢野先輩の慧眼にはほとほと感嘆するばかりである。
矢野先輩の早逝は余りにも惜しく天を恨む他ないが、幽明境を異にした今となってはその創始された未完の事業を継承し、必ずや真正日本回復のその日まで闘い続けることしかない。矢野先輩の謦咳に接し薫陶を受けた者達が在りし日のその一言一句を想い起こし、その記憶を綴ることは今となっては亡き矢野先輩の恩義に報いる最大の供養となろう。
それはまた、かつて若き日の自らの青春を綴ることであると同時にこれからの己れの生き様をなぞることでもあろう。かかる趣意に立ってこの場を開設するものである。
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