しかしそれも、大東亜戦争の敗戦そして占領を通じて地を掃ってしまった。荘厳にして偉勲な民族理想を復権して国家の道義、国家の理想へ再び転化する維新革命なくして、日本の復活、アジアの復権ということも有り得ない。日本の維新革命とアジア共同体建設が一体不可分、不離不即の関係にあることを領解しなければならない。
ソ連邦の崩壊によって、今ユーラシア大陸はカオスの大陸と化してしまった。旧ソ連邦は一五の共和国に分裂、各共和国はそれぞれ少数民族問題を抱え、さらに分裂を深めようとしている。最大のロシア共和国は、それ自体が帝国であり、百余の少数民族を内部に抱え、それぞれがロシアからの自由を求めて民族自決運動を展開している。ロシア共和国は早晩、ヨーロッパ・ロシア、極東、シベリアに三分裂することは歴史のすう勢として必至である。そして旧ソ連邦の崩壊、ロシア共和国の三分裂の激流は必ず最後の「帝国国家」中共を直撃するのは間違いないのである。
ウイグル、モンゴル、満州、チベットは歴史的にも政治的にも文明的にも独自のナショナル・アイディンティーを有しており、シナの国家と文明とは全く別物である。天安門事件以降、政権の崩壊的危機にある中共が、最早老境死期に入った登小平の自然死とともに文字通りの崩壊に至ることも確実であり、その時中国大陸は民族自決主義のルツボに叩き込れることになる。シベリア、極東の有色人種のロシアからの独立自治の運動、そしてこれに続くウイグル、モンゴル、満州、チベット、さらに最後の分断国家である朝鮮の民族統一とユーラシア大陸東半分は民族自決主義が燃え上がり、真にあるべき新しい秩序の形成が不可避的となる。我が日本はこれらの民族自決主義を徹底的に擁護し、さらに指導の剣を揮って世界史の潮流を牽引しぬかなければならない。大東亜戦争で民族自決の正義の旗をひるがえし、戦後も一貫して有色人種の復権と勃興のために尽力してきた我が日本にして始めて、これが可能である。そのためには、我が国は再び維新革命の洗礼を浴びなければならず、平成維新によって日本が主権国民国家から世界史的世界国家へ飛躍する時、アジアの復権と共同体が成就するのである。
>戦後デモクラシの特質
日本もひとつの世界=世界史的世界に五〇〇年前に組み込まれたが、しかし我が国が世界史の主役のひとつとして世界史に登場するのは、実に日露戦争であった。明治維新によって中世的封建国家体制を打破し近代的主権国家を樹ち立てた我が国は、同時に神武建国−万世一系の民族理想を再び国家道義として再確立した。近代西欧諸国が中世から近代への入り口に於いて、反君主制・共和主義の市民革命を完遂したのに対し、我が日本はこれとは逆に神武建国の国家成立事実に立脚して、君主制を再確立した点に注意しなければならない。君主制打倒を本質的要素とする近代欧米デモクラシーと君民一体による国民平等の実現という日本的民主主義の根本的違いを確実に領解するのでなければならない。
日清戦争は明治維新によって国家的理想を更新した日本と中世的旧秩序の守旧に固執する大清帝国との、東アジア秩序の主導権争奪をめぐる覇位争奪戦に他ならなかった。そしてその戦勝によって、アジア新秩序建設のヘゲモニーを確立した日本が、次にアジア防衛の主体として欧米列強と最初に対決したのが日露戦争であったのである。しかし日露戦争の勝利によって、日本は欧米列強の敵対者として、それとの死活的抗争を余儀なくされるに至る。大東亜戦争の遠因は実に日露戦争の勝利にあった。第一次大戦は所謂君主主義と民主主義の闘いとして闘われた。この戦争によって露、独、墺、土の四大帝国は崩壊、民主主義の全面的勝利が宣言されると共に、ロシア革命の勃発によって共産主義は史上初めて具体的主体性を持つに至った。アングロサクソンの戦勝によってデモクラシーは世界を席捲、同時にロシア革命の成功によって共産主義は全世界蔓延の形勢を示した。
世界史的世界に於いて、我が国もこの二つの潮流の坩禍たるを免れず、国内にはデモクラシーと共産主義思想が猖獗を極めた。これが大正デモクラシーであった。大正デモクラシーは日本国内に胚胎するものではなく、実に米国の伸長とソ連の建国に由来する国際政治力学の変更を原因とする、その単純なる国内的反映に他ならなかった。米ソ二分割世界支配体制はこの第一次大戦前後に萌芽し、第二次大戦による。ハックス・ブリタニカの崩壊によって全面化したものであった。
明治維新以来の近代化即ち欧米崇拝は、この大正年間に極点に達し、維新革命の真理想を蹂躙する大正デモクラシーの全面開花となった。大正デモクラシーは二つの柱を持っていた。ひとつは天皇機関説であり、他のひとつは政党政治であった。そしてそれは先に述べた通り、米国のアジア侵略ーワシントン体制に照応したものだったのである。これに対し日本国家主義運動は第二維新−アジア主義の旗幟を以て全面対決した。内に明御神天皇、外に万邦協和の実現という明治維新の理想の徹底的実現を要求したのである。大正末期から昭和前期に於けるテロルの嵐は内に大正デモクラシーを根絶したのみならず、満州事変の勃発によってワシントン体制との全面対決へと至った。しかし我が国は大東亜戦争に敗北、戦勝国米国の世界覇権を受容せざるを得ずに至った。英国の没落と米国の覇権支配、大正期ワシントン体制で萌芽したパックス・アメリカーナは全面開花し、日本もアメリカデモクラシーの下での生存のみを許されることになる。これが戦後デモクラシーであったのである。
戦後デモクラシーの核心は天皇象徴制と国民主権=政党政治ということである。大正デモクラシーと極めて類似していることに注意しなければならない。大正デモクラシーと戦後デモクラシーはパックス・アメリカーナに対応した国内原理である点で共通しているが、しかし前者は国家独立主権を保持し取捨選択の自由を留保したのであったのに対し、後者は敗戦・占領によって国家独立主権を剥奪された状態に於ける強制的付植であった点で根本的に異なるものであった。戦後デモクラシーはアメリカンデモクラシー即ち反君主制共和主義の直接実現である点で、大正デモクラシーとは本質的に異なるのである。重要なことは、ソ連邦の崩壊、共産主義の死滅が戦後デモクラシーの左肢=社共売国派に壊滅的打撃を与えようとしているのと同様に、米国の衰退の深まりと共に、戦後デモクラシーの右肢=自民党亡国派の存在理由の喪失に直結していることである。戦後デモクラシーは日本の民族的伝統に基盤を有しない直訳的輸入のものでしかなく、その保証者たる米国が衰退すれば必然的に亡運を余儀なくされるに至る構造性を持つことを知らなければならない。
戦後デモクラシーの特質とパックスアメリカーナとの対応性・構造性について理解されたと思うが、それでは戦後国家主義運動は何を為すべきであろうか。先に述べた通り、我々国家主義運動の先輩は、大正デモクラシーに対し真向から対決し血泥の決戦を拒んだ。大正デモクラシーそのものに対しては「第二維新」を以て対峙し、その国際的保証者米国主導のワシントン体制に対しては「アジア主義」を以て対置した。大正デモクラシーの二つの柱、即ち「天皇機関説」に対しては「天皇神聖」を、「政党政治」に対しては「天皇親政」を掲げ、前者は「美濃部天皇機関説事件」でこれを葬り、後者は「朝日平吾暗殺事件」を塙矢としてテロリズム・クーデター計画の頻発を以て国家権力に迫った。また「アジア主義」の理想は「満州事変」?「満州国建設」へと歩を進め、ワシントン体制打倒は現実のものとなっていったのである。ただ惜しむらくは、「第二維新」?「昭和維新」が「皇道派」と「統制派」の対立にみられる様、国内建設が先か維新が先かの戦術的対立を最後まで調整できず、国策統合に失敗したままアングロサクソンとの早期の決戦へと引きずり込まれ結局敗戦の憂き目を見た点である。注意すべきは、世界大恐慌後の三〇年代世界が米国の「ニューテイル」(先進資本主義国の修正資本主義)とソ連の「スターリン主義」(資本主義を全否定した集権軍事共産主義)に収れんして行く中で、遅れた資本主義国として脆弱な基盤しか持たず市場も資源も何も持たない日独伊の国家群には、あれより他に選択し得る他の手段が有り得なかった点である。また、国策統合は「二・二六事件」を経た「支那事変」後一応完整するに至るが、大東亜戦争は明治維新の理想の徹底的実現という点でいささかの疑問の余地もない正義の聖戦であったということである。或いは、テロやクーデターという戦術的闘争手段が明治憲法体制の特異性から導き出された全く合理的なものであったが、三島由紀矢先生も指摘された通り「道義的革命」という固有の限界を有していた点を理解しておかなければならない。
それでは我々は何を為すべきか。
戦後デモクラシーと雖も日本そのものに出自を持つものでなく、世界史的世界に於ける国際的政治力学関係に発するものであること。特にパックスアメリカーナの国内的反映としての特質を有することに確固として踏まえて、米国の衰退を見透えアジアに立脚した世界史的世界国家建設の国家戦略ー組織運動戦略を確定することである。米国の衰退と孤立主義への再回帰は最晩止めようもない趨勢にあり、今日の日米経済成長率を元に計算すれば今後一〇年以内即ち来世紀初頭には絶対値に於いても日米経済力の逆転が現出することは確実である。日米摩擦は経済から政治軍事外交と全ゆるものに拡大しかつ激烈化してゆくのは必至である。冷戦崩壊と共に萌芽した「日−欧−米」三極ブロック抗争は激化の一途を辿ることは間違いないのである。今日の人類史の発展段階に於いて、人類の究極の理想は「世界連邦」であるがしかしそれに到達するには人類が一層の道徳的向上をとげるか、或いは重大な科学的進歩によって少なくとも言語の障害が克服されない限り、依然として「世界国家」の段階に止まらざるを得ないということである。そして人類が過去「自然的民族」ー「文化的民族」ー「国家的民族」の段階を経て発展して来た過去に徴すれば、来たるべき可能な「世界国家」とは「種族的民族の共同体」以外にはないこと。五〇〇年の欧米白人種の文明独占と支配に代替する、東洋有色人種の文明的形成と国家統合が不可逆の歴史的潮流であること、換言すれば「アジアに立脚した世界史的世界国家建設」が実現されなければならない。そしてその歴史的形成の主体として、大東亜戦争の敗戦にも拘らず、奇跡的な復興−経済的超大国化を実現して再び世界史の主体となった日本、しかも国家の成立事実に於いて「百姓照明・万邦協和」の人類史的理想を国家道義として持つ我が日本のみが能く為し得るということである。
その為に戦後デモクラシーの全一の打倒即ちポツダム亡国派政権の打倒が実現されなければならない。
興国派の党建設の意義
自民党政権の正体は、サンフランシスコ体制ー戦後デモクラシーの「右肢」であることを徹底的に暴露しなければならない。自民党亡国派の奉戴する政治信念はアメリカ独立革命−フランス革命の理念である反君主制的共和主義即ち自由主義・民主主義そのものに他ならない。日本国家の独自性即ち「明御神天皇−百姓照明・万邦協和」の国体に対する信念はいささかもないのである。自民党政権が先の昭和大帝の御不例から今上陛下の大嘗祭に至る間に如何に国体破壊に狂奔したか、この許すべからざる大罪を見れば一見にして瞭然であり、断じて免罪してはならないのである。自民党は日本国体の信奉集団ではなく、米国の国体の忠実な信奉者であることを忘れてはならない。
そうであるが故に、また自民党政権は衰退深める米国との従属と屈服をますます深めつつあるが、その亡国路線に対して、「国体−国史−国益」の「三大興国」政策を以て全面対決し、「奉勅維新ー世界新秩序建設」を内外において貫徹していかなければならないのである。亡国派=自民党に代わる興国派の民族政党が今こそ建設されなければならない。
戦後国家主義運動は「反共主義」の重大な過誤を犯して来た。米ソ冷戦体制の下では「反共主義」は当然の政策的選択であったが、しかし余りにも「反共主義」を戦略化し過ぎた。その結果、冷戦が終焉した今日の段階に至って、真の敵・打倒すべき敵について明確な認識すら抱くに至っていない。例えば最も重要な「国体」ー「憲法」ー「自民党」に関してすら混乱が見られる。果して国体は「護持」されたのであろうか。国体が「統治大権」乃至「統治権の総攬者」を不可欠の要素とすることは自明であり、かっかっての国民の信念でもあった。終戦末期政府はポツダム宣言受諾に当り、「天皇統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラサルコトノ了解ノ下二受諾ス」と申入れ、若しこの条件が認めらない時国体の崩壊を意味するので徹底抗戦を決意していた。この申入れに対し連合国側は「最終的ノ日本国ノ政府ノ形態ハポツダム宣言二遵ヒ日本国国民ノ自由二表明スル意思二依リ決定セサルベキモノトス」と回答して来たので、我が国も申入れが了解されたものとして、ポツダム宣言の受諾に踏み切り、終戦の詔書には「朕ハ茲二国体ヲ護持シ得テ」「誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ」と宣せられ、国民一般も皆この一点にやっと降伏の悲痛な決意を固めたのであった。
この約束をしかるにマッカーサー占領軍は蹂躙し、かつハーグ陸戦法規に違反して占領中憲法改正を強行した。そして保守諸党=自民党はサンフランシスコ講和条約発効以降法的独立を回復したあとも、現行憲法を「憲法」と認知し奉戴し続けて今日に至っているのである。独立主権国家の「憲法」であるためには、まず第一にその国民の自主的制定、第二に国家的伝統に立脚していることを不可欠の成立要件とする。だとすれば現行憲法は「憲法」ではなく、単なる「占領管理基本法」として制定されかっ独立後は「管理基本法」でしかない。これを「憲法」と強弁し、かつ第一条・第四条で統治大権を否定されてはいるが、第二条で「皇統」が保障されたから、「国体」は護持されたというのは全くの詭弁でしかない。
「国体」は護持されなかったし、現に護持されてもいないのである。自民党はマッカーサーが天皇の手から奪い取って与えた統治大権を独立後もそのままネコババを決め込んだ正真正銘の「裏切り者」に他ならない。自民党は日本国民として破壊された国体の回復義務があるにも拘らず、戦後一貫何もしなかったのであって、刑法学で言う「不作為による作為犯」(例えば自分の子供が川に落ち溺れ死のうとしているのにこれを助けようとしなかった親は殺人罪として処罰される)、紛れもない統治大権の簒奪者に他ならないのである。であるが故に、戦後国家主義の存在理由が厳然としてあるのであって、簒奪者を纂奪することこそ維新革命の本義なのである。徳川幕府が統治大権の纂導者でなければ打倒する必要もなく、正に簒奪者であったが故にこれを纂奪して一天子を奉戴する国民的統合を実現しなければならなかったのである。この点、曲りなりにも統治大権が聖上に存した大正デモクラシーと根本的に異なり、第二維新の志士はそれ故テロ・クーデターの手段を駆使して天皇の御嘉納を求め続けたのである。
国体が護持されず、自民党政権が裏切り者であるならば、戦後国家主義運動は裏切り者を打倒し自らの手で国体を回復しなければならない。換言すれば、我々は第二維新型の運動ではなく明治維新型の維新革命を完遂しなければならない。「テロでは何も変わらない」とは戦後久さしく国家主義者間の口上にのぼる通用の認識であるが、であるならば自らの意思で自らの力で簒奪者から権力を纂奪する以外にないのである。維新革命は権力の奪取であり、国民の思想信仰体系の一大変更である。マッカーサーが強制注入した反君主制的共和主義の思想信仰体系を一転換して、日本人が固来連綿として継承保持して来た万世一系の思想信仰を回復せしめなければならない。憲法が主権者の政治的決断によって制定され或いは改廃されるものならば、現段階での政党国家制に立脚して新民族主義派は自らを「憲法制定権力」として組織し抜かなければならないのである。打倒すべき敵、亡国派−自民党に依頼し請願し泣訴陳情するさもしい根性を捨て、自らを未来の憲法制定権力として構成し打倒されるべき敵を打倒すべく一途邁進していかなければならない。
亡国派に代わる興国派の党建設は如上の意義を持つものなのである。
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