三島・森田義挙の今日的意義

平成5年11月25日

 三島・森田両烈士が市ケ谷台上で壮烈な諌死を遂げてより満二三年を迎える。この間、我々は両烈士顕彰追悼の「憂国忌」を計二三回開催し、「三島由紀夫研究会」は計一七〇回、「文学セミナー」開催は三五回に及ぴ、これらの運動に参加せる者の総計は七万余人を数える。戦後国家主義運動史上、かくも永続的で力強い国民運動はかつて過去に存在しなかった。
 両烈士の義挙からすでに二三年、世界ならびに日本は義挙当時とは大きく様変りした。あれ程強盛を誇ったソ連邦は崩壊し、米国また頽勢を色濃くしヤルタ体制は瓦解した。代って我が国が大東亜戦争で解放したアジアの復興は頃来目覚しく、新世紀が「アジアの世紀」となるのはほぼ衆目の一致するところとなっている。その中で、我が国は米国に阿付追随するか、アジア興隆の牛耳を執るかが問われるに至っている。
 国内においても、自民党一党優位制は瓦解し、五五年体制は崩壊するに至った。両烈士が決起を呼び掛けた自衛隊は、湾岸戦争を機に「国際貢献」の名の下相次いで海外派遣され、憲法九条をめぐる論争は「一国平和主義」か「積極的国際貢献主義」かに移った。またこの間「昭和」から「平成」へ変遷し、皇位継承儀礼の過程で伝統的国体の改ざん・改悪が図られ、伝統的国体とは以て非なる戦後象徴天皇制は初めてその完き相貌を顕わにするに至った。
 しかしその結果は昨今の悪辣な皇室叩きを現象し、戦後象徴天皇制は新たな動揺に直面している。
 両烈士が死を以ててっけつした国家の基本問題はこの様に何らの解決を見ることなく、かえってますます政治は混迷を深めるのみである。内外深まる混迷の中で、三島思想の精髄を掴み「ねぢ曲った国の大本を正す」ことはますます急務となっているのである。

  政治・思想的な意義として次の諸点をあげなければならない。
 まず第一に戦後体制の欺瞞と矛盾とりわけその根柱となる現行エセ「憲法」の反民族性・反国体性・亡国性を完膚なきまでに暴露した点である。これは義挙当日市ケ谷台上で撤れた檄文中の「戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎの偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆく」「国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を汚してゆく」また「自由でも民主主義でもない。日本だ、われわれの愛する歴史と伝統の国日本だ。これを骨抜きにしてしまった憲法」という諸文から明らかである。敗戦占領という国家民族の非常時の中、勝利者の思想への屈服、戦後デモクラシーの受容はやむを得ない選択であったろう。しかしながら占領憲法=戦後デモクラシーによる新日本建設というスローガンと実践は約半世紀の経験を通じてついに新しい精神文化、新しい政治文化、新しいモラリシュエネルギーを産み出すことはなかったのである。
 政治の腐敗、社会の混乱、道徳の頽廃は戦後デモクラシーそのものから湧き出たものであって、敗戦と占領によって歴史が分断されたことに起因している。過去、現在と将来をつなぐ国家生命、国家精神の回復こそ今日真に求められるべきものであって、これに沿った改革を行うことこそ本来の政治の任務である。戦後デモクラシーの廃棄による新しいモラリッシュエネルギーの興起、これこそ今真に求められているのである。
 相次ぐ新党の誕生、異常なまでの新党ブームそして「改革・再編」の怒号にもかかわらず、しかしその中味は全く戦後デモクラシーの枠内のものでしかない。戦後政党政治が占領憲法=戦後デモクラシーに拝きし続け、ついに新しい政治文化、新しい政治道徳、新しいモラリシュエネルギーを産み出すことができなかったことこそ、今日の政治腐敗の全ての原因に他ならない。戦後デモクラシーに拝きし、その枠内で「改革・再編」を怒号することは全く背理と言わざるを得ない。 

 第二に、戦後体制を根底から打倒する思想と原理は、戦後流行思想のマルクス主義ではなく、日本民族不易の伝統である。国体=天皇制の一貫性を回復することにあることを明らかにしたことである。同じく檄文は明確に主張する。
 「国のねじ曲った大本を正す」ためには「天皇を中心とする日本の歴史、文化、伝統を守ることにしか存在しない」と。
 凡そすべての政治的なる概念は、悉くその拠って来たる固有の文化から発している。政治は文化の一部であり、各地域各民族毎に有する多様な文化に応じて各々異なる政治観・国家制度が歴史的に形成されて来たのである。
 本来一元の人類が先史時代を終って歴史時代に入ると共に、それぞれの自然的・風土的環境に応じて固有不可譲の風俗習慣、宗教・規範、言語をつくり上げ、政治論や国家制度も文化の相異に応じて独自のものを形成してきたのである。「国体」とは通常「国柄」と称されるが、国ごとに異なる国家の基礎となるべき政治・文化の総体を云うのである。
 日本文化の精華として結実した日本民族の政治思想は「万世一系」ということであった。我々の祖先がこの国を肇めるに当って全心全霊を挙げて確立せる理想は実に「あまつひつぎのみさかえ、あちつちとともにきわまりなし」ということであった。
 日本建国の理想はこの「天壌無窮」の一句に尽され、この一句こそ日本民族固有の政治理想に他ならない。
 皇統が万世一系となるためには、日本民族そのものが万世に亘って独立しかつ繁栄することが必須の条件となる。外敵の侵入によって、あるいは国内に代朝革命が起これば万世一系ということはない。万世一系の建国の理想を奉じるがゆえに、外敵の侮りに対して真に挙国一致の抵抗が可能となって独立を全うでき、易姓革命の思想を否定したがゆえに、代朝革命に伴う長期の国力の疲弊を克服することが可能となって間断なき繁栄を享受できるのである。われわれは日本が皇統万世一系であることが同時に日本民族福祉の根源であることを切実に反省しなければならない。

万世一系

 そして第三は、中ソと密通する社共ーポツダム売国派は言うまでもなく、「改憲」を標傍してきた自民党も実はその表看板とは裏腹の「護憲」主義に染め上げられていることを一点の曇りもなく暴き出したことである。檄文は次のように言う。「敢て憲法改正という火中の栗を拾はずとも、事態を収拾しうる自信を得た」「政府は政体維持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自信を得、国の根本問題に対して頬かぶりをつづける自信を得た」「左派勢力には憲法維持の飴玉をしゃぶらせつづけ、名を捨てて実を取る策を固め、自ら護憲を標傍することの利点を得た」と。
 今日、亡国派は国際貢献主義の為の九条改正は提言しても、今ひとつの改憲の要諦である国体規定(一・四・二〇条)の改廃については一言も語らぬばかりか、国体とは対極の戦後デモクラシーへの拝きを一段と強めているのである。国防規定の改廃は勿論必要不可欠である。しかしそれは国体規定の改廃と同時でなければならない。米国の走狗としての国際貢献主義=国防規定の改廃でなく、文化共同体の復興によるナショナルアイデインテイチイの再確立、その下でのモラリシュエネルギーの興起そして建国精神の国家的再確立による世界史的世界国家の建設こそ我々の目標なのである。


国体は護持されたか

 三島思想の核心は天皇−国体問題にあった。果たして国体は護持されたのか。
 政治理想、国家制度は各々民族の抱懐する伝統、文化、宗教の相異に応じて多様である。山川草木のひとつひとつに神を観じ霊力を感じ取る日本人の豊かな感受性は、自然そのものも人格的存在と把える八百万の神観を成立せしめた。日本的宇宙観においては神も人も自然も矛盾的自己同一として大いなる和を保持している。そうした万象の矛盾的自己同一の中心に在しますのが万世を貫いて一系の皇統に他ならない。日本天皇はまさしく日本文化の粋であり核なのである。しかし天皇はただ文化的存在だけにすぎないのではない。政治が文化をその根底にもつ精華である限り、天皇は国家の中心にまします政治的存在でもある。日本の国体、日本天皇の特質は、文化的存在と政治的存在とが分かち難く結び合わさっている点にあるといってよい。
 わが国は万世一系の天津日嗣御子が、明御神(アキツカミ)=祭祀王にして同時に天皇(スメラミコト)=統治王として、祭紀と政治の中心におわしまし、「祭祀権」と「統治権」をその御一身において帰一している”祭政一致”を国体の本義としているのである。勿論、現行マッカサー憲法一条において天皇は「国の象徴・国民統合の象徴」とされ、政治組織としての国家において国民統合という政治的機能を果しており、全くの非政治的存在ではない。しかしそれが四条に書いてある通り「国事行為」のみを行い「国政に関する権能を有しない」政治的存在だとするならば、統治者=統治権の日本国体は否定されているといわなければならない。
 法律は議会の議決のみによって成立し、官吏は天皇の任命によらずしてその職務に就くものであれば、立法・行政・司法の全ての権力は天皇と全く無関係に行われるものとなり、仮令天皇の名称だけは存置していたとしてもそれは単に「空名」に止まり、君主としての地位は全く失われている。国家の最高統治者として統治権の源泉にまします上御一人でなければ、そしてそうした天皇存在を支持することが国民総意の存する所でなければ、文化的存在に裏付けられた政治的存在とは言えない。
 問題は「国体」という概念において何を理解し、そうして把握される「国体」が敗戦−占領−新憲法制定によってなお貫徹されているか否かである。国体の観念は国家組織における主権の所在と離るべからざる関係にあり、文化と政治、祭祀権と統治権が天皇の御一身において帰一している状態を指す。明治維新はこうした国体の再確立を目的とした維新革命で、明治維新以降通常国体という言葉でこの観念を想定、万世一系の天皇が国の元首として統治権を総撹し給う事実を指してきた。したがってマッカーサー憲法体制のように、立法・行政・司法の殆ど全部にわたって天皇の国家統治の大権を除き去り、限られた数個の形式的儀礼行為の外には単に国家の象徴のみに止めるなら、伝統的国体は根本から「変革」されたと断言せざるを得ない。
 これに反してもし「国体」のもとに単なる皇統を理解するとすれば、憲法二条によって皇統存続が明記され制度的に保証されている以上、天皇制の根底が万世一系から国民主権主義に変っただけであって、結局国体は「変革されなかった」ということになる。
 この論を展開する者は「万世一系」という権力の正統性の根拠を問題とするのみで、具体的な天皇の権限の多少を問題としない。それゆえ幕府制度の時代にあっても、将軍の権力は天皇の委任にその正統性の根拠をもっていたから、万世一系の天皇がわが国を統治し給うという肇国以来の国体の根本義に至っては寸毫も動くことがなかったという。その背景には、天皇が自ら国政の衝に当たられないことが天皇の尊厳を保つ所以であるという「天皇超政論」がある。この主張はマッカーサー憲法下の「象徴天皇」を正当化する論理として、「天皇親政が標傍されかつ執行されたのは上古と近代だけ」「不親政が天皇制の本質であって親政主義は天皇制の本来の姿ではない」などの論を展開した。そして日本の伝統・文化について殆ど無知な占領軍のニューデイラー派の軍人によって僅か一〇日で考案された「象徴天皇」を、日本本来の伝統に適ったものとして賛美し、かえって「天壌無窮」とされた明治国家の国体こそ日本史上異例のかつ好ましからざる事態だとするイデオロギーを散布したのである。この「象徴天皇」制全面賛美・合理化論が敗戦亡国の危機に際し、天皇制を擁護する目的を以て構築され、実際上もソ連や中国そして日共の「天皇戦犯・処刑」要求に対して決定的な防波堤の役割を果してきた功績は固より否定できない。しかしそれもなお当時昭和天皇に寄せられていた測り知れない偉大なカリスマ性が厳存していたから可能であったのである。この「天皇超政」論を憲法二〇条によって伝統的文化と切断され、憲法一条・四条によって初めから「象徴天皇」として御即位された平成の天皇に対しても展開し賛美するとなれば意味は全くことなることになり、国体「変革」を合理化する理論に変質することになる。まして「日本国憲法の定める天皇制は江戸末期の天皇制の連続と称するにふさわしい内容」などと賛美するなら、逆賊擁護のイデオロギーに他ならない。
 事実、「象徴天皇」制を全面賛美する亡国派は先の「大嘗祭」において憲法二〇条を根拠に伝統的文化との結び付きを悉く断ち切り、「天皇超政」論者が唯一こだわった「万世一系という権力の正当性の根拠」さえも一てきして「国民主権」原理にもとづいて挙行されたのである。その結果、平成の新天皇は「空名−統治大権をもたない」だけでなく、「虚器一祭祀大権だけは有する」すら有しない天皇として大礼大典を挙げられることになった。幕府制度の七〇〇年においても、天皇は政権を武家に纂奪された「空名」の存在であっても、なお万世一系の天皇がわが国を統治し給うという肇国以来の国家統治の正当性を有するという「虚器」だけは有していたのである。
 「空名」にしてかつ「虚器」すら有しない「万世一系」であるならば、わが国民の歴史的信念をくつがえし国家の伝統を破壊するものと云わざるを得ない。
 伝来固有の国体は、戦後明らかに「変革」されたのである。まずこの認識に立脚することが維新革命の先決問題となる。


平成維新の指標

靖国

 戦後国家主義運動が直面する平成維新の大指標として、第一に「奉勅維新−世界新秩序建設」、第二に「三大改新=三大興国路線」そして最後に「亡国派=ポツダム綱領総翼賛体制打倒ー興国派の党=民族民主党建設」の三点を、「総路線」として明確に提起しなければならない。第一のものは世界観・文明観あるいは根本の政治理念に係わるもので、敗戦を契機として戦勝国によって押し付けられ今日なおわが国家と民族を呪縛し続ける「ヤルタ=ポツダム体制」を打破し、わが民族が世界史的民族として再び復権していくうえで、所謂「終戦の詔勅」に回帰することが是が非でも必要であり、そうすることによって「日本=悪玉」の「東京裁判史観」の克服も初めて可能となる。「終戦の詔勅」は民族の滅亡を避けるため一時的に干支を収めるが、しかし連綿とうち続く民族正義を温め必ずや将来国家を再建して失地回復の聖戦に決起せよという、文字通りの復讐の誓い=報復宣言に他ならないのであって、決して無条件降伏の城下の誓いではないのである。そして重要なことは、この詔勅が占領憲法下の統治大権も祭祀大権もない「空名虚器の象徴天皇」ではなく、明御神(アキツカミ)天皇(スメラミコト)たる御位において発せられた最後の詔勅であり、しかも今日では昭和天皇の御遺詔となったという事実である。それゆえ、この詔勅は決して「敗北宣言」ではなく、昭和天皇が全国民に向けて発せられた「国体回復−祖国再建−世界新秩序建設」への大号令なのである。それゆえ、東京裁判史観を克服して国史の連続、国体の回復を志す者は、この詔勅に回帰しかつ奉行するのでなければならない。

 つぎに政権党=亡国派の「三大亡国路線」すなわち「国体破壊−国史否定−国益放棄」の路線に対して、「国体破壊」に対して「国体再建」を、「国史否定」に対して「国史肯定」を、「国益放棄」に対して「国益擁護」の旗を掲げ、亡国派と真正面から対決しかつ打倒にむかって突き進まなければならない。
 まず「国体」を再建しなければならない。国体とは国祖の建国の大義を連綿継承し給う天皇を「明御神=天皇」として再び政治、経済、文化、外交の全ゆる国家生活の中心とすることである。古来わが国は、天皇を「上御一人」として奉戴し、皇朝の廃絶すなわち「革命」をただの一度も経験することがなかったし、またそれゆえに真の国民的団結を発揮でき一度も外敵の「征服」を受けることがなかった。しかし敗戦「占領」とマッカーサー「革命」によって、この美しき国体は破壊されたとはいえ、「皇統」が残った以上「明御神=天皇」の本則の国体へ回帰することこそ、平成維新の第一主題であり大眼目となるものである。
 つぎに「国史」が全肯定されなければならない。天皇を三千年の国家生命と一億二千万人の国民生命の徴表者として奉戴し、敗戦によって戦前戦後に分断された国史を一貫して連続せしめなければならない。とりわけ神武建国理想に回帰した明治維新の意義を復権し、その世界的顕現として戦われた大東亜戦争の本義を復活し、「大東亜戦争=侵略戦争」「日本=悪玉」の「東京裁判史観」を打破することが最も重要である。さらに神武建国理想の国内的実現と世界的恢弘は表裏一体・一体不二である由縁を力説高調し、今後将来にむかって国内では「平成維新」、世界に対して「新秩序建設」を実現してゆくことこそ戦後国家主義運動の大任務なのである。さらに「国益」を断乎擁護しなければならない。国益とは、日本民族の国家的理想の対外的展開を図りその成果を守護していくことである。それぞれの国家には、各々の建国の理想・立国の大義というものが存在し、東西が融合して世界がひとつとなった「世界史的世界」の今日、それぞれの理念が形成し展開し完成をもとめて競合し合っているのである。
 繰り返される国家の興亡、民族の盛衰はそうした各民族理想の現実的形成力の結果に他ならない。「米ソ衰退−日本興隆」の新たな世界史的転換の今日、米ソの国家思想である自由主義と社会主義は世界形成力を全く喪失し、これに取って代って日本民族の生命力が横溢しようとしている。この横溢する生命力を三千年の民族理念によって真に裏打ちし、国家道義力として新たな世界形成原理へと高めていくことが、平成維新の世界的課題となっているのである。
 第三に「亡国派=ポツダム綱領総翼賛体制打倒?興国派の党=民族民主党建設」の旗幟が掲げられなければならない。平成政変が日本民族に課した試練は、国力横溢する経済大国一日本が小日本主義に耽って自堕落に沈倫するか、それとも更に自強飛躍して世界文明と世界秩序を領導する大日本主義を建設するか二つにひとつの選択である。
小日本主義即ち戦後デモクラシーに拝きし、米国の走狗として東海粟島で一国平和主義のこう安を貧るか、それとも大日本主義即ち建国の道義に覚醒して戦後デモクラシーのくびきを断ち切って、近代西洋キリスト教文明に代わる大日本文明を創造し五〇〇年に亘る西方東漸=白人覇権を根底から打破し、有色人種復権の下諸民族共存協和の人類黄金郷を建設するのかー亡国派の小日本主義か興国派の大日本主義かが問われているのである。


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