保守系新党の相次ぐ結成と保守一党制の崩壊、社共左翼政党の没落と中間政党の連立政権参加−既成議会政党の総保守化の趨勢は謂わば起こるべくして起こったのである。さて、細川連立政権が命運を賭けた政治改革法案が成立した現在、政局の次の焦点は政界再編成に移って来た。そこで今後の政界再編成を展望するうえで、留意すべき点を若干指摘しておかなければならない。
まず第一は、自民党の再分裂は必至だということである。これまで幾度も指摘して来たように、自民党の分裂は一昨年離党した細川ー日本新党、昨年夏に脱党した武村グループー新党さきがけ、羽田・小沢派の新生党の保守系三新党にとどまらず、自民党内に留まって政治改革の積橿推進の必要性を叫ぶ「政治改革推進議員連盟」をもふくめた文字通りの四分五裂と見るべきものなのである。この党内に残留した「政治改革推進議員連盟」は総数一七四人もの議員を擁し、このグループは改革の必要性と改革の論理、目的そして結論において、自民党を脱党した保守系三新党と共通しており、したがって一群のものとして見るべきものである。ただこれまでの自民党内における議員相互の感情的行き懸り、心情的親疎好悪の為保守系三新党と歩みを別にしただけであって、政治改革の実現、五五年体制の打破、政界再編成の必要性という諸点では少しも変わらない。したがって政治改革法案が曲りなりにも成立した今、議員の政治生命に直結する小選挙区の「区割り」問題、ゼネコン汚職捜査が中央政界に及び自民党の大物政治家から逮捕者が続出する場合、あるいは自民党改革が不首尾に終る場合、これらの積極改革グループは機を見て自民党を脱党していくことになるであろう。無論、「政治改革推進議員連盟」 一七四人の全て悉くが「離党予備軍」とは言えないが、年末脱党した「西岡グループ」に続き、「北川グループ」「志士の会」「炎の会」など何時脱党してもおかしくないグループが次第に結束を強めている。
もし、突発的な解散・総選挙という事態にでもなれば、旧悪的イメージで染め上げられた自民党に見切りをつけ、新党、新グループを結成して集団脱党に踏み切ることはほぼ断言して間違いないであろう。長期政党に伴う金権腐敗、派閥支配、組織硬直、指導者不在といずれを取って見ても、今の自民党には復調・政権回復の可能性は皆無であって分裂と解体の宿運を辿らざるを得ない。小選挙区・比例代表並立制の実施ともなれば、なおさら自民党の縮小退運は避けられ様もなくなるのである。
第二に、社会党の分裂もまた不可避的だという点である。社会党は一月一一、一二日の両日党大会を開いたが、この党大会を機に党が分裂する最悪の事態だけは避けられたが、しかしこの党大会を通じて左右対立が最早埋めようもないことが一層鮮明となった。小選挙区・比例代表並立制導入やコメ市場開放問題をめぐり、執行部が従来の党方針を次々と変更して行くことに対し、左派は反発を強めており左右対立の激化で何時分裂があってもおかしくない状況が続いている。
現在、中間・右派八派グループが大同団結して新集団「テモクラッツ」を結成、自衛隊合憲、日の丸・君が代是認、原発容認の基本政策を打ち出している。これに対し「党の主体性」を重視する中間・左派も「真の政治改革を進める会」などを拠点に結束を強めている。政治改革法案が成立した今、解散・総選挙含みの政局の中で、「テモクラッツ」が中央政界復帰の意向を固めていると言われる横路ー北海道知事を担いで党を割り、民社党や新党さきがけとの提携を模索する動きを加速させるのは間違いないであろう。とりわけ党分裂の引き金になると見られているのが、所得税減税の財源と絡む消費税の引き上げ問題である。連立政権が消費税引き上げを決定した場合、左派を中心に連立離脱論が強まる中、党を二分する論議となるのは必至であろう。社会党の分裂を見るうえで重要なことは、すでに数年前労戦統一が実現し「連合」が発足済みだということである。
「連合」ー山岸は社会党右派・民社党・社民連の「社民ブロック」を核に日本新党、さきがけさらに自民党左派まで糾合した「社民リベラル新党」構想を画策しており、左右分裂を機にこれが動き出す可能性が高くなっているのである。第三に、連立政権の要を構成する保守系三新党の動向という問題である 連立与党八党・会派は発足以来次第に「新生・公明・民社」「日本新党・さきがけ」「社会党」の三ブロックヘの分岐を鮮明にして来た。そのうち「新生・公明・民社」のブロックは明確に「保守二党制」を志向し、特に公明党は次期衆院選は統一確認団体か新党結成で闘う方針を確認している。これに対し「日本新党・さきがけ」ブロックは、これまで「穏健な多党制」を標傍、自民党の再分裂をにらんでその離党グループと合体し新・新党を結成して政界再編のヘゲモニーを握ることを目指して来た。ところが細川は最近、従来の「穏健な多党制」の路線を放棄し保守系三新党の合体による新保守党結成 ー「保守二党制」への転換を志向しつつあるといわれている。
細川の描く構想は、まず日本新党とさきがけが合併し新生党も加わって中軸を形成しこれに公明、民社両党さらに自民党の改革推進派、社会党右派なども統合しようとするものだと言われる。要するに、現在細川連立政権に参加している八党・会派のうち社会党左派を切り捨て、代わりに自民党改革派を新たに引き込んで、自民党に対抗しうる強力な継続的基軸を形成しようというものに他ならない。細川とすれば政治改革法案が成立した以上、次は長期本格政権を目指すうえから政界再編の牛耳を執る必要があり、自分が首班であり続ける為には「穏健な多党制」より「保守二党制」の方が政権基盤が安定し遥かに有利なのである。しかし武村ーさきがけはこの細川構想に難色を示し、特に小沢ー新生党との合併には飽くまで反対といわれる。だが希代の機会主義者である武村のこと、案外な展開があるかも知れない。
確実に言えることは、政界再編をにらんで連立各党の主導権争いは今後次第に激化していくということである。細川・武村・小沢の三つ巴の暗闘確執は瞬時も目が離せなくなっている。
平成政変の歴史的意義
昨年夏の狂おしいばかりの政変以来、現在我が国の政治はかつての敗戦占領期に匹敵する、戦後第二の大転換期に直面している。敗戦占領期に於いて、マッカサー占領軍によって定立された価値・規範・統治システムの全てが約半世紀を経て悉く退色無効に帰し、これに代って新しい情勢、新しい時代に適応した新たな価値、新たな政治文化の創造が歴史的に要請されているのである。したがって平成政変と称すべき現在の日本政治の混迷の特徴を把握し、その真に向かうべき所を掌握することは、時代と民族の変革者を自負する我々にとって何よりも急務となっている。まず、今度の平成政変の短期的な固有の意義を明らかにしなければならない。そのまず第一は、自民党一党優位制の最後的崩壊ということである。周知の様に、自民党一党優位制とは戦後の左右イデオロギー的対立政治の中で、保守諸勢力の統一党として発足した自民党が、議会に於いてガリバー的な寡占を続け政権が挙げて自民党一党に帰する体制であった。自民党は文字通り「天下党」として財界・官界をも一元的に抱合して君臨し、全国津々浦々市町村の末端に至るまで中央集権的な集票と反対給付の網目をめぐらして来た。しかしその一党優位制の完整に伴う病理の露呈特に相次ぐ金権腐敗によって、自己改革を成し遂げることに失敗して政権の座を追われる結果となってしまった。政治改革をめぐる党争の激化によって、細川グループ、武村グループ、羽田・小沢派が相次いで自民党に見切りをつけて脱党、それぞれが新保守党の結成に踏み切り、しかも緒戦に於いて大躍進を博した。
この保守新党の結成と大躍進によって、保守諸勢力の統一党としての自民党固有の存在理由は消滅したのである。保守を代表代弁する政党が一つでなくなった以上、自民党は表紙の顔を変える姑息の手段では最早復調はおろか政権回復も不可能なのである。第二に指摘すべきことは、戦後デモクラシーの自己破産ということである。敗戦占領という国家民族の非常時の中、勝利者の思想への屈服、戦後デモクラシーの受容はやむを得ない選択であったろう。しかしながら占領憲法−戦後デモクラシーによる新日本建設というスローガンと実践は、約半世紀の経験を通じて遂に新しい政治文化、新しいモラリシュエネルギーを産み出すことはできなかったのである。政治の腐敗は社会の混乱、道徳の頽廃と同じく戦後デモクラシーそのものから湧き出たものであって、敗戦占領によって歴史と伝統が分断されたことに起因している。過去、現在と未来をつなぐ国家生命、国家精神の回復こそ真に求められるべき解決法であって、これに沿った改革を行うことこそ本来の政治の任務なのである。戦後デモクラシーの廃棄による新しいモラリッシュエネルギーの興起、これこそ今まさに求められているのである。第三に指摘すべきことは、自民党一党優位制の崩壊は単に国内的視点のみから見るべきものではなく、米ソ冷戦の崩壊そしてそれに踵を接する米国の衰退という世界史的文脈の中で理解するべきものだという点である。しかしこれについては既に述べた。
さて、それでは長期に亘る平成政変の特質について展望しておく必要がある。まず第一はすでに見た様々な政権構想の錯綜を経て、二、三回の総選挙の後結局保守二党体制へ収れんして行くということである。五五年体制は自民党と社会党の対抗的政治構造であったが、その比率は常に二対一に維持されてきた。五五年体制は自民・社会二大政党体制でありながら、しかし実質的には政権は自民党にのみ存在し続けてきた。
五五年体制はまさしく自民党一党優位体制に他ならなかったのである。そして五五年体制の成立契機及び存続要件はすでに繰り返して述べてきたように、米ソ冷戦体制であった。ソ連崩壊によって冷戦体制が消滅すれば、必然的にその国内的分肢としての五五年体制も存続の要件を欠くに至る。すでに冷戦対立が盛期からデタント時代へ移行するにつれ、五五年体制も不断の動揺を続け、とりわけ六十年代後半以降創価学会の政界進出、民社党の社会党からの分裂によってブロックとしての中道勢力が形成されて以降、その純然たる定型は破綻に直面していたのである。そして米ソ冷戦において米国の優位、ソ連の劣勢が次第に明確になるにつれ、国内でも保守化の趨勢、革新の凋落は動かし難いものとなり、八十年代中期以降総保守化のすう勢の下自民党一党優位制はますます強固なものとなってきた。
今度の自民党政権独占体制の破綻はまさしく総保守化、そしてそれを政権党内的に反映した総主流派体制の下で、政・財・官の構造的癒着、金権汚職が構造的に完成した途端にその病理が一挙に噴出する形で突発したものなのである。しかし自民党一党優位制は自己破産したが、左翼の凋落−総保守化のすう勢は何ら変っておらず、自民党とこれから離脱した保守三派新党を加えた議席数は、かつての自民党一党優位制下の最高獲得議席数をはるかに上回っているのである。平成政変は保守の分裂であって、それ故社会・共産等左翼の一極の没落を誘い込む形で、同時に中道の存在理由をも滅却する形で保守二党体制へと収れんしてゆくことは間違いないのである。第二にこうして形成される保守二党体制は、しかし今までの亡国派が二つに分れただけであって、戦後デモクラシーの枠内での政界再編でしかないということである。
何度も繰り返すが、政局は今後五年から十年激震に次ぐ激震を繰り返していくであろう。その間自民党は再分裂・社会党は分裂の危機をはらみ、各政党間、各新勢力間でめまぐるしい離合集散が劇的に展開し、しかし結局保守二党体制へ収れんしていくであろう。そうして出来上がる保守二党の思想基軸、政綱政策は極めて類似したものとなり、ちょうどかって戦前の政友会と民政党、あるいは現在の米国の共和党と民主党の様な関係のものとなるであろう。そうすると健全な政権交代の実現という政治改革所期の目的は達成されることになろうが、しかし翻ってみれば、同じ思想系を奉ずる二つの政党が政権を争うだけであって、今までの自民党一党優位制下の派閥問の合従連衡による政権たらい回しと実質的に何ら異ならないことになる。
日本新党ー細川は「創造的護憲論」を唱え憲法を政綱政策の根本に据えることを揚言している。しかしこれは社会党−山花が新綱領的文書「九三年宣言」に盛り込もうとしている「創憲論」とどこがどう違うのか。新生党ー羽田は大東亜戦争の国会謝罪決議をアジア外交の根底に据えようと主張している。しかしこれと中曽根、宮沢の天皇謝罪・土下座外交とどこがどう違うのか。細川、山花、羽田の考え方、思想信条は通底一致しており、その根幹にあるのは戦後デモクラシーへの拝きであり、アメリカンデモクラシーをもって保守新党の血肉としようとするものであって、これまでの亡国派=自民党の政綱政策と寸分も違わないのである。欧米における二大政党制はリベラリズム、コンサーバテイズムにしろいずれも共通の民族文化、精神文化から表出したものであって同根のものであり、それ故二大政党制の存在理由があるのである。
日本の来るべき保守二党制はともに伝来固有の精神文化、道徳、思想とは全く無縁の単なる外国の制度の崇拝模倣でしかない。大正政変によって成立した政友会−民政党の保守二党体制が外来制度の崇拝模倣であったが故に度し難い腐敗と抗争の末に自ら墓穴を掘ったように、戦後デモクラシーに拝きする保守二党体制も全く同一の運命を辿ることは火を見るより明らかである。保守二党体制はポツダム綱領総翼賛体制、亡国派ともう一つの亡国派の政権たらい回しの最悪の政治体制であって、日本人自らの手による「第二の敗戦占領体制」の確立以外の何物でもないのである。第三は平成政変の適帰すべき結論は平成維新による世界史的世界国家建設以外の何物でもないことである。
東西冷戦の終焉そしてそれに引き続くパックスアメリカーナの動揺、日本を取り巻く国際環境は文字通り劇的に変化している。日本もまた敗戦占領当時の「三等農業国」ではなく、世界経済の一七%を占有する突出した巨大な経済大国となっている。今や経済大国日本は自らの意志と力によって、自ら生存するに適当な秩序を自ら創り出すのでなければ一日の延命も覚束なくなってきている。一昨年秋の金丸議員辞職を契機に、竹下派=経世会の分裂から始まった自民党の一党優位制の崩壊劇は経世会内部の小沢と梶山の近親憎悪的確執を引き金としていたとは言え、その落着すべき結論は戦後占領体制の全的廃棄による世界史的世界国家の建設であること、五五年体制の清算はその道程における一里塚でしかないことを知らなければならない。ちょうど幕末維新が関ヶ原以来の徳川と長州・薩摩の宿怨旧恨を利用して始まりながら、しかし結局適帰するところ統一的国民国家の建設であり、その終局的理想の前にはついに徳川のみならず長州と薩摩そのものを滅ぼしたように、あるいはまた大正政変の真正の結論が昭和維新による大東亜戦争であり、政友会と民政党の抗争はその為の露払いの役割を果たすためのものであったことと全く同一である。
細川・小沢・梶山もそして保守新政党も、国家民族が要請する世界史的世界国家建設の終局的理想の前には、ついには煮らるる走狗たるの運命を辿らざるを得ないものなのである。平成政変は平成維新の幕を切って落としたのであり、この天意を十分にそしゃくしなければならない。
三大亡国路線を走る連立政権
昨年九月号で、世上の短命政権の指摘に反して、細川連立政権が案外長く持ち耐えるであろうことを指摘しておいた。その理由は第一に、「反自民=政治改革」こそ時代を制する奔流となっており、この騎虎の勢いに乗る八党・会派は大連立であるが故に、却って参加各党の間で相互抑制、相互牽制の機能が働き簡単に連立破りは出来なくなること。第二に、連立政権上最も脆弱で最も問題を抱える社会党に、かつての終戦直後の片山内閣の時に比べて左右対立による分裂・瓦解のエネルギーが残っていない点を挙げておいた。その指摘通り、この半年間細川連立政権はとにかく瓦解しないで存続、特に最大の難局である政治改革法案を成立させた今、本格政権になる可能性は十分にある。しかしこの半年、細川連立政権の為すことやることは自民党−亡国派以上の悪政、国体・国史・国益の悉くを蹂躙する、極め付きの亡国派がその紛うことなき正体だったのである。「三大亡国路線」を突っ走って来た細川連立政権の罪状の第一は、細川の「侵略戦争」発言である。細川は八月十日、首相就任後の初めての記者会見で先の戦争をどう認識しているかを問われ、「侵略戦争だった」と断言し続いて間髪を入れず「間違った戦争」と明言したのであった。細川及び連立政権の正体・本質をこれ程一点のくもりもなく明らかにしたものはない。確かにこれまで自民党政権時代、昭和五七年一二月九日衆議院本会議で時の田中角栄が「侵略戦争」と初めて答弁して以来、以下竹下?宇野−海部−宮沢と歴代首相は事ある毎に「軍国主義の侵略」あるいは「我が国の行為を厳しく反省」と戦争責任・謝罪発言を繰り返してきた。しかし歴代首相が結果的には同じ認識を示しながら、慎重にタイミングを選んで抑制的口吻であったのに対し、細川の場合は首相に就任して初めての第一声でありかつ直接的断言的口吻だったところに特異性がある。細川が「東京裁判史観」の確信犯的な信奉者であることは間違いないのである。大東亜戦争を「日本?悪玉−侵略者」と頭から信じ切っている細川は、この妄言にも懲りず、更に一一日の初めての訪韓、日韓首脳会談で「創氏改名」「日本語強要」「従軍慰安婦徴用」など過去の具体例を逐一列挙して「加害者として陳謝」したのであった。細川と連立政権は合意事項の中で、「かつての戦争に対する反省を踏まえ、世界及びアジアの平和と発展のために協力することを内外に宣言する」ことを謳い、過去の「戦争責任」についての明確な反省を以て旧守派=自民党政権との違いを際立たせる一大セールスポイントに仕立て上げようとしている。「侵略戦争」発言、「加害者としての陳謝」などいずれも殊更自民党政権時代より一歩踏み込んでいるのはその為なのである。しかし、歴史認識の問題は悠久の生命体である国家民族の生存そのものに直結する問題である。戦争あるいは隣国との紛争ということも、永い歴史的過去にまつわる錯綜を根底に持ち、一方時代時代の世界史的現実の中での不可避的な決断行為に他ならないのである。したがって一方的な侵略戦争や一方的な正当防衛戦争、一方的な危害や一方的な被害ということは有り得ず、歴史的には成り立たない。大東亜戦争評価の唯一の基準は昭和天皇から賜った「開戦の詔勅」以外にはなく、述べ記されているのである。デッチ上げたマッカサー自身が後日反省悔悟し、今日その虚構性と政治性が論証されている「東京裁判史観」を、堂々たる一国の宰相たるものが不用意に信奉奉戴するとは不見識も甚しいところであり、殊更な揚言は正に万死に値するのである。細川と連立政権の正体・本質は亡国派−自民党以上の極悪の亡国派に他ならないのである。罪状の第二として特筆されなければならないのは、「コメ市場開放」に象徴される一連の対米屈服外交である。既に前月(一月号)で述べた様に、「経済再建」を至上命題とする米国は、日米二国間、地域間そしてグローバルの面で、多層的かっ重畳的な対日封じ込め戦略を発動してきている。ソ連の軍事的挑戦を勝利の裡に退けた米国は、冷戦終焉後ソ連に代わって日本が己の経済的覇権を脅やかしつつあるのを発見し、大統領の交代と共に経済的覇権死守を賭けた戦略的再編を断行して来たのである。米国の世界戦略はイクオール対日戦略と極言してまず間違いなく、深まる一方の日米摩擦は単なる経済通商紛争なのではなく、その本質は「パックス.アメリカーナ」の死守、次位覇権の確立を賭けた覇権抗争に他ならないのである。ただ、防衛者にその自覚が強烈で、挑戦国が全く意識していないだけの問題である。米国はまず二国間関係では円高攻勢、日米包括経済協議によってジャブを浴びせ、次いで地域間関係ではNAFTA(北米自由貿易連合)、APEC(アジア太平洋経済協力会議)を通じた対日封殺包囲網を敷きつつある。これはいわばボディーブローであって、速効性はないがしかし確実に日本経済をじわじわと痛めつけることになるであろう。そして最後にグローバルな戦略としてウルグアイ.ラウンド終結が位置しているのである。米国は第一のものと第二のものによって、製造業の日米再逆転を完遂し、そのうえでサービス、知的所有権、農業などずば抜けた国際競争力を持つ分野で、一気にカサにかかった対日攻勢を強めようとしている。「コメ市場開放」はその象徴的な先駆であって、「コメ市場開放」によって我が国の食糧安全保障体制は将来瓦解し、今後国民の糧食は米国の手中に握られることになったが、あの米国のゴリ押し・脅迫外交が全ゆる通商分野で悉く貫き通されるのは火を見るより明らかである。こうした米国の国運を傾けた対日戦略の発動に対し、我が細川は一方的な妥協と屈服を繰り返し、ズルズルと国益を売り渡して来たのである。例えば昨年一一月のAPEC総会の場合、細川はクリントンの召還に欣喜雀躍して馳せ参じ、苦もなくクリントンの日本封殺戦略のワナに落ちたのであった。細川があの時やるべきことは、米国のアジア市場再分割に対し懸念と危機感を抱いているASEAN(東南アジア諸国連合)を歴訪して、特に米国のAPEC構想に一貫して反対しているマハティール・マレーシア首相と会談、これら諸国の利益を代弁しアジアに於ける日本のプレゼンスを強烈に印象付けてからAPEC総会に臨むべきだったのである。しかし細川は米国の顔色をうかがい統け、この一番大切な時期、ASEANとは逆の方向の韓国を訪問、屋上屋を重ねる謝罪・土下座外交に打ち興じていたのであった。細川及び連立政権の各党派は冷戦時代の思考惰性、因習に未だとらわれ、米国がまだ我が国にとって同盟国であり、日米間のパートナーシップが不変だと頭から信じ切っているのである。しかし、米国の対日認識はすでにそこにはなく、明確なライバル即ち敵対者として位置付け、我が国を標的に包囲封殺を戦略として発動して来ているのである。このまま対米従属、対米屈服がズルズル続けば、我が国は世界史的頂点を再び目前にして、二度び亡国の淵を彷徨することになるのは必至である。すでに米国の逆襲によって全ゆる分野で日米再逆転が惹起し、アジア各国特にシナの急追を受けて経済超大国の面目は急速に色あせている。米国もシナも経済プロパーではなく、国家国力の総力を挙げて覇権抗争を闘ってきているのである。政治を挙げての対米戦略、国家を挙げての世界戦略の確立はいよいよ急務となっているのである。こうした意味で、二月に行われる日米首脳会談に注目しなければならない。第三の罪状は、国防に対する忌避である。日本を取り巻く国際環境は米ソ冷戦の終焉と共に一変した。米国は日本を標的に巻き返しに転じ、シナー中共はソ連崩壊と日米の衰退をにらんでこの空白を埋めるかの様に軍備拡張に乗り出している。シナー中共の「海洋戦略」は明らかに日本に対抗してアジアに於ける覇権確立を企図するもので、その結果米国の巻き返し戦略と相侯って、日本の安全保障は危殆に瀕しているのである。米国−日本ーシナの三国相互関係に於て、両者の中間に位置する日本は常に双方に翻弄されて来たという歴史的事実がある。日露戦争に於ては、米国は帝政ロシアの南下を牽制する為我が国を支援し、しかし日本が大勝を博するや忽ちシナと協商して日本の台頭を制肘するワシントン体制を構築した。戦後もまず最初は蒋介石と同盟日本の弱体化を策し、しかしこれが中共政権成立によって崩壊するや日本の反共防壁化による大陸封じ込め戦略に一転したのである。クリントンの「経済安全保障」「太平洋共同体構想」は再び日本を標的に設定し始めたものであって「軽武装・対米従属」の吉田ドクトリンに呪縛れる日本は今や再び米国の巻き返しとシナの攻勢に挟撃されようとしている。「軽武装・対米従属」の吉田ドクトリンからの脱却が国家的急務となっているにもかかわらず細川は逆にこの吉田ドクトリンに対する拝きをますます強めているのである。細川の国防に対する無責任を象徴する事例を三つ挙げなけれぱならない。一つは昨秋の自衛隊記念日に於ける横柄な態度と訓辞、二つは年末の中西防衛庁長官解任、三つは「中期防」の中途打ち切りと大幅軍縮である。厭戦反軍思想にこり固った細川は冷戦の終焉を大義名分に、自衛隊の縮小と防衛費の削減を強行しようとしている。しかしその結果は、シナー中国の大軍拡と北朝鮮の核・ミサイル開発によって我が国の安全は危殆に瀕するに到っているのである。
小日本主義打倒し三大興国改革へ
政治改革法案が成立したことによって、政界編成が次の政局の焦点となって来た。政界再編は「穏健な多党制」から「保守二党制」へ暫時移行していくことはほぼ間違いない。しかし、平成政変の帰着するところが保守二党制であり、しかも保守二党制がともに戦後デモクラシーに拝きしポツダム綱領を奉戴するものであるとすれば、まさしく二つの亡国派が出現するだけでしかない。
戦前における保守二党制 ?政友会と民政党?が大正デモクラシーに拝きし、米国崇拝と米国追随を専らとし、政権と利権をめぐって党争を繰り返し自滅したように、今の二つの亡国派も再び国家民族を滅亡に導くことになるのは必定である。大正デモクラシーと戦後デモクラシーはともに国際的にはパックスアメリカーナに全面追随した国内原理である点で同じであり、また欧米崇拝による固有伝来の国家理想の蹂躙という点で同一であり、天皇機関説と象徴天皇制、議会主義−政党政治という統治システムにおいても全く同質である。しかし大正デモクラシーにしろ、それが日本に現実にもたらしたのは政党の腐敗、社会の混乱、道徳の頽廃であって、とりわけ戦後デモクラシーの場合銃剣を突きつけての強制であった点で、そのもたらした害悪は大正デモクラシーの比ではなかった。それゆえ平成の保守二党制が大正デモクラシー下の保守二党制以上の狂躁と害毒を国家民族に及ぼすのは必至である。
平成政変を混乱と狂躁の五年十年に終らせては断じてならないのである。日本の歴史を振り返って明らかなように、ペリー来寇による幕藩体制の動揺から始まった慶応の政変が真に求めた結論は明治維新による近代的統一国家の建設であり、大正政変の国政十年の混乱が適帰すべき真正の結論は昭和維新による大東亜戦争であったとするならぱ、今緒に付いた平成政変が日本国民に求める真正の結論は、平成維新による世界史的世界国家建設?日本民族の意志と力による世界新秩序の建設以外の何物でもないのである。翻って世界史を見ても、ビクトリア朝イギリスでは強盛横溢する経済力を背景に、国内では保守党の大イギリス主義と自由党の小イギリス主義が鋭く対立、国家民族の要請するところに従って大イギリス主義の勝利に帰着し、パックスブリタニカの空前の世界秩序を建設した。同様に今日のパックスアメリカーナ成立のためには今世紀初め共和党のモンロー主義と民主党の国際主義の鋭い対立があり十年の闘争を経て初めて民主党政権の下で建設されたものなのである。
イギリスの保守党にしろ米国の民主党にしろ、いずれも建国の精神、伝統的文化道徳の最も忠実な体現者であり、それゆえに世界を領導する一大文明と一大秩序を建設し得たものである。これに対し、細川に限らず連立政権参加の各党派の指導者及び自民党のリーダー、つまり既成議会政党の議員ども全ては、米ソ冷戦終焉の持つ歴史的意義及びその結論として当然導かれる日本の世界史的使命について、全く見識もなければ方策もない。新生党−小沢の「普通の国」路線を自民党ー河野は「ミニ超大国路線」とヤユ批判したが、現在我が国の置かれている世界史的位相に照らして、小沢の目指す「普通の国」路線がより歴史的要請に合致していることは疑い様もないのである。
今日政界に於いて、小沢ほどの見識を持つ者は他に誰もなく、他の惰弱なヒヨッ子に比べれば群鶏の一鶴とも言える。しかし、その小沢の「普通の国」路線も我々が志向する「大日本主義」から見れば、たかが「中日本主義」でしかなく、細川、竹村、河野、山花の「占領憲法拝き・対米従属」を旨とする「小日本主義」よりよりましというだけであって、冷戦終焉以降の新しい時代に対応した日本の新しい国家戦略としては極めて不十分でしかない。
我々の目指す「大日本主義」は戦後占領体制の全的廃棄−憲法と安保の清算をテコとした世界史的世界国家の建設、即ち「パックス・アメリカーナ」に代わる「パックス・ジャポニカ」の建設に他ならない。したがって我々の目指す平成維新の大指標は、第一に「奉勅維新−世界新秩序建設」、第二に「三大改新−三大興国路線」、そして最後に「亡国派の党−ポツダム綱領総翼賛体制打倒し興国派の党?民族民主党建設」の三つでなけれぱならないのである。第一のものは世界観・文明観あるいは根本の政治理念に係わるもで、敗戦を契機として戦勝国によって押し付けられ今日なおわが国家と民族を呪縛し続ける「ヤルタ・ポツダム体制」を打破し、わが民族が世界史的民族として再び復権していくうえで、所謂「終戦の詔勅」に回帰することが是が非でも必要であり、そうすることによって「日本?悪玉」の「東京裁判史観」の克服も初めて可能となること。「終戦の詔勅」民族の滅亡を避けるため一時的に矛を収めるが、しかし連綿とうち続く民族正義を温め必ずや将来国家を再建して失地回復の聖戦に決起せよという、文字通りの復讐の誓い−報復宣言に他ならないのである。そして重要なことは、この詔勅が占領憲法下の統治大権も祭祀大権もない「空名虚器の象徴天皇」ではなく、明御神(アキツカミ)天皇(スメラミコト)たる御位において発せられた最後の詔勅であり、しかも今日では昭和天皇の御遺詔となったという事実である。それゆえ、この詔勅は決して「敗北宣言」ではなく、昭和天皇が全国民に向かって発せられた「国体回復−祖国再建−世界新秩序建設」への大号令なのである。それゆえ、東京裁判史観を克服して国史の連続、国体の回復を志す者は、この詔勅に回帰しなければならない。つぎに政権党?亡国派の「三大亡国路線」すなわち「国体破壊ー国史否定−国益放棄」の路線に対して、「国体破壊」に対し「国体再建」を「国史否定」に対し「国史肯定」を、「国益放棄」に対して「国益擁護」の旗を揚げ、亡国派と真正面から対決しかつ打倒にむかって突き進まなければならない。
まず「国体」を再建しなければならない、国体とは国祖の建国の大義を連綿継承し給う天皇を「明御神ー天皇」として再び政治、経済、文化、外交の全ゆる国家生活の中心とすることである。古来わが国は、天皇を「上御一人」として奉戴し、皇朝の廃絶すなわち「革命」をただの一度も経験することがなかったし、またそれゆえに真に国民的団結を発揮でき一度も外敵の「征服」を受けることがなかった。しかし敗戦「占領」とマッカーサー「革命」によって、この美しき国体は破壊されたとはいえ、「皇統」が残った以上「明御神ー天皇」の本則の国体の回帰することこそ、平成維新の第一主題であり大眼目となるものである。つぎに「国史」が全肯定されなければならない。天皇を三千年の国家生命と一億二千万人の国民生命の徴表者として奉戴し、敗戦によって戦前戦後に分断された国史を一貫して連続せしめなければならない。とりわけ神武建国理想に回帰した明治維新の意義を復権し、その世界的顕現として戦われた大東亜戦争の本義を復活し、「大東亜戦争=侵略戦争」「日本=悪玉」の「東京裁判史観」を打破することが最も重要である。さらに神武建国理想の国内的実現と世界的恢弘は表裏一体・一体不二である由縁を力説高調し、今後将来にむかって国内では「平成維新」、世界に対して「新秩序建設」を実現してゆくことこそ戦後国家主義運動の大任務なのである。さらに「国益」を断固擁護しなければならない。
国益とは、日本民族の国家的理想の対外的展開を図りその成果を守護していくことである。それぞれの国家には、各々の建国の理想・立国の大義というものが存在し、東西が融合して世界がひとつとなった「世界史的世界」の今日、それぞれの国家理念が完成をもとめて競合し合っているのである。繰り返される国家の興亡、民族の盛衰はそうした各民族理想の現実的形成力の結果に他ならない・「米ソ衰退−日本興隆」の新たな世界史的展開の今日、米ソの国家思想である自由主義と社会主義は世界形成力を全く喪失し、これに取って代って日本民族の生命力が横溢しようとしている。この横溢する生命力を三千年の民族理念によって真に裏打ちし、国家道義力として新たな世界形成原理へと高めていくことが平成維新の世界的課題となっているのである。第三に「亡国派=ポツダム綱領総翼賛体制打倒−興国派の党=民族民主党建設」の旗幟が掲げられなければならない。平成政変が日本国民に課した試練は、国力横溢する経済大国−日本が「小日本主義」に耽って自堕落に沈倫するか、それとも更に自強飛躍して世界文明と世界秩序を領導する「大日本主義」を建設するか、二つにひとつの選択なのである。
「小日本主義」即ち戦後デモクラシーに拝脆し、米国の走狗として東海粟島で一国平和主義の康安を貪るか、それとも「大日本主義」即ち建国の道義に覚醒して戦後デモクラシーのくびきを断ち切って、近代西洋キリスト教文明に代わる大日本文明を創造し五百年に亘る西方東漸ー白人覇権を根底から打破し、有色人種復権の下諸民族共存協和の人類黄金郷を建設するのか?s亡国派の「小日本主義」か興国派の「大日本主義」かが問われているのである。
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