ポツダム綱領に拝跪する二大政党制

平成15年10月1日

はじめに

 9月20日行われた自民党総裁選は予想通り、小泉首相の圧勝に終わった。小泉は国会議員票の約55%、党員票に至っては約7割をも獲得し他の3候補を圧倒した。再選を果たした小泉は翌21日に役員人事を断行、党務の要である幹事長職に当選わずか3回で閣僚経験すらない安部晋三を大抜擢、今月にも予定されている総選挙に向けて清新なイメージを演出。ついで22日には内閣改造に踏み切り、抵抗勢力が強く更迭を求めていた経済財政・金融相に竹中を敢えてそのまま留任させ、構造改革路線の断固たる継続を内外に強くアピールする人事を行った。この一連の人事で小泉人気は再び沸騰、各種世論調査ではいずれも6割を超える高支持率を記録している。一方、7月電撃的に合併協議に合意した民主・自由両党は24日正式に合流、その結果旧新進党以来9年ぶりに国会議員200人以上を擁する大型野党が誕生。今月5日には結党大会を開催し「政権を担える野党」として、「菅・小沢」の二枚看板で真っ向から政権交代を狙う。小泉再選ーー新民主党の誕生で今月10日にも断行される解散・総選挙では嫌がうえにも二大政党制への期待が高まっているが、果たして問題は何もないのか。その本質を剔抉する。


空疎な「改革」に打ち興じる小泉=自民党

 まず自民党の現況から見ておこう。先の一連の総裁選ーー党役員人事ーー内閣改造を通じて明らかになったことは、次のことであろう。第1に、党内は改革派と抵抗勢力の真っ二つに分裂し激しい鬩ぎ合いが続いていること、第2に、依然として「護憲・安保縮小」の「小日本主義」と「改憲・安保強化」の「中日本主義」が混在し、党の理念・基本政策が全く整頓されていないこと、第3に、だがしかし取り敢えず「総選挙の顔」として国民的人気の高い小泉を総裁に選び、その小泉がこれまた「選挙の顔」として無党派層の獲得を狙って安部晋三を抜擢したということである。総じて言えば理念・基本政策で全く正反対の勢力が混在しながらも、ただ「政権維持」だけを自己目的化して結合しているのである。近代政党としての体を為していないこと言う迄もない。だがそれにも関わらず、次の総選挙では小泉=自民党の勝利は間違いないであろう。読売新聞が内閣改造直後に実施した世論調査では、小泉再改造内閣の支持率は63・4%を記録し、政党支持率を見ると「自民党」は38・5%で、「自由党と合併した民主党」はその三分の一にも満たない10・8%に過ぎないからである。小泉を「総選挙の顔」に選び、その小泉が安倍晋三を「党の顔」である幹事長に起用した“ポピュリズム”がまんまと図に当たった格好である。これでは如何に新民主党が「菅・小沢」の二枚看板で真っ向から政策論争を挑んでも、勝ち目があろう筈がない。民主、自由両党の“合併効果”は強かな小泉=自民党の前に完全に消し飛んだと言わざるを得ない。だがそうすると、さしたる大失政でもなければ小泉=自民党は来年の参院選挙も勝利を収め念願の単独過半数を回復し、あと3年小泉政権が続くことになる。だが、国家民族にとってこれ程の迷惑にして不幸はないであろう。では、小泉政権の何が問題なのか? 第1は、その構造改革路線が全く枝葉末節に終始している点である。何時も言う様に、構造改革は世界史的トレンドである。前世紀のトレンドであった「福祉国家」の理想は冷戦崩壊と共に破綻し、いずれの国家も高コスト体質からの転換を迫られいる。だが小泉のやっている構造改革は全くの場当たりで体系性もなければ一貫性もないうえに、しかも全くスピード感がないのである。年金など社会保障制度、税制・財源、地方分権・三位一体改革等々は同時にかつ一挙にやらなければ意味がないのである。この点では小沢の方が優れていること言う迄もない。第2に、国民の求める政策とは逆の政策を選択し、国家経済をますますじり貧に追い込んでいる。景気が悪いときは積極財政、景気が良くなったら緊縮財政というのは、マクロ経済学のイロハである。また、構造改革と景気対策は両立しない訳ではないのである。構造改革によって冗費を削り、浮いたカネを成長分野に集中投資する。この発想が丸でなく、ただ「構造改革なくして景気回復なし」と馬鹿の一つ覚えの様に絶叫しているだけなのである。既に2年半の貴重な時間を無駄にしている。この先更に3年小泉に政権運営を任せるならば、日本経済はますますじり貧の一途を辿ること必至であろう。結局第3に、小泉には大改革を領導するグランドデザイン、その基いとなる国家観・国家論が丸でないのである。小泉は2年前の総裁選で「憲法改正」「集団的自衛権の行使」「終戦の日の靖国参拝」などを”公約”に掲げて当選した。いずれも日本が「小日本主義」から「中日本主義」へ転換するために喫緊にして必須の国家的課題である。だが小泉は実際総理総裁となるや、そのどれも不実行のまま国家と国民を裏切って来た。所詮はこの男の頭には「郵政民営化」しかないのである。


理念なき野合=新民主党

 民主、自由両党は5日に結党大会を開き、迫る次期衆院選に向けた態勢を整える。菅直人代表と小沢一郎自由党党首を“二枚看板”に据えて「政権を担える野党」として政策本位の選挙をアピールし、小泉=自民党との一騎打ちに出る構えである。計算上は新民主党が自民党から6,70議席もぎ取れば、新民主党が自民党を抜いて比較第一党になる。だが残念ながら既に述べた様に、「小泉・安倍」という強力な“選挙の顔”を擁する自民党の壁を突き破ることは無理であろう。その前にこの新党、何の魅力もないのである。論点を3つ挙げることとする。
 まず第1は、理念・基本政策の合致なき「数合わせの野合」だと言うことである。仕掛け人の小沢一郎は「自民党政権を倒し政権交代を実現させるための手段だ」と強弁する。しかし民主党は「小日本主義」をその基本理念とし、一方自由党は「中日本主義」を基本理念とし、例えば国家像や国家理念、防衛・安全保障政策や経済社会政策の基本でまさに水と油ほどの差異があるのである。更に細部の差異については言わずもながで、如何に「政権交代」を大義名分に掲げようともこれほどの違いがあれば、理念・基本政策を無視した「数合わせの野合」との誹りは免れないのである。先に自民党は「小日本主義」と「中日本主義」が混在し、党の理念・基本政策が全く整頓されていないと断言したが、事情は新民主党も一緒なのである。これでは新党の魅力は何もなかろうと言うものである。
 第2は、自民党はただ「政権維持」だけを自己目的化して結合していると断言したが、この新党も「政権交代」だけを唯一自己目的化して野合しているのである。
近代立憲政治は政党をその基盤とし、党争による政権交代を当然の事とする。所謂「政党国家」である。但しこれが成立するためには政党毎に理念や基本政策が合致していなければならないこと言う迄もない。そのうえでの政党本来の党争−−政権交代であるならば政党政治の常道である。だがしかし自民党は先に述べた様に「小日本主義」と「中日本主義」が同居し、国家喫緊の課題である「集団的自衛権の行使」一つ決断出来ないでいるのに、今またかつての自民党から社会党まで同居して安全保障政策一つ決められない新党が誕生するのである。
小沢や管は口を開けば必ず「政権交代」を怒号する。だが理念や基本政策に於いて水と油ほどの差がある民・由両党が野合し、よしんば政権交代が実現して一体何になる? 今の自民党と同じ政権がまた一つ出来るだけなのである。自民党だけでなく、この新党も近代政党としての体を全く為していないのである。
第3は、新党の“二枚看板”である小沢一郎の時代はとうの昔に終わっており、菅直人の時代は永遠に来ないということである。かつて小沢は「中日本主義」の輝ける体現者であった。ヘーゲルが言った様に、歴史的理念は英雄や大政治家に体現する。10年前冷戦が崩壊し日本がその国力に相応しい世界史的貢献を求められ、日本そのものも占領憲法の「小日本主義」的弊衣を脱ぎ捨て国力に相応しい世界史的秩序形成を必要としている時、小沢は「中日本主義」の輝ける体現者として大衆の人気を博した。だが結局小沢はこの千載一遇のチャンスを、基本理念、政策においてまさに水と油の社会党や公明党と連携したため逸してしまった。今夢よもう一度とばかりにしゃしゃり出ようとしても、二度目はヘーゲル流に言えば「喜劇」でしかない。「中日本主義」はその体現者を求めて今や、石原慎太郎、そして今売り出し中の安倍晋三と陸続と続いているのである。小沢が同じ「中日本主義」流の石原や安倍と連携するならば兎も角、「小日本主義」流の管直人や土井たか子と連携しようとすれば同じ過ちを二度犯すだけでなく、自ら一貫希求して来た「中日本主義」の歴史的要請に自ら唾することになるのである。
この道理の故に「小日本主義」流の菅直人の時代は永遠に来ないのである。


二つの亡国派によるポツダム総翼賛体制の完整

 新民主党の結成とそのデビュー戦となる今度の総選挙で、自民党ーー民主党の「二大政党制」が漸く緒に付くことになるのは間違いないであろう。だがその結果は国家民族の将来にとって、度し難い害悪を及ぼすこと必至である。何が問題なのか? 簡潔に述べることとする。
まず第1に、これまで散々言われて来た“ねじれ現象”が全く解消されていないことである。既に見た様に、自民党も新民主党も基本理念に於いて水と油ほどの違いがある「小日本主義」と「中日本主義」が混在している。その結果両党とも基本政策の意思決定すら出来ず、国家喫緊の課題の解決は何一つとして解決されず先送りされて来た。例えば今なら、日米同盟に基づくイラク派兵、北朝鮮の瀬戸際政策に対応する集団的自衛権の行使、道徳・思想の紊乱に対処する教育改革が目下の国家喫緊の課題だが、政党政治と言いながら両党の党内の意見は真っ二つの割れ、何一つとして意思決定出来ないでいるのである。本来なら理念・基本政策が合致する、例えば自民党=小泉と新民主党=小沢、自民党=経世会と新民主党=鳩・菅が手を握って連携すべきなのに、政策的にもっとも近い両者が最も激しく対立しているのである。
自民党一党優位制の崩壊以来この10数年、理念・基本政策の一致による政党の整頓、所謂“ねじれ現象”の解消が最大課題となって来たにも拘わらず、細川連立政権に始まって自社さ、自自、自自公、自公保と、共産党を除く全ての政党が一度は政権に参加したが、しかし一度として政治が安定した試しがないのである。自民党ーー民主党の「二大政党制」もこの弊を脱しておらず、その害悪は必ず国家民族に災いを為すこと必至と言わざるを得ないのである。
第2に、自民党ーー民主党の「二大政党制」は結局「保守二党体制」だということである。既に見た通り、自民党と新民主党は「小日本主義」と「中日本主義」が混在し、その本質的構造が驚くほど相似している。だとするならば「二大政党制」と言っても同じ思想系を奉ずる二つの政党が政権を争うだけであって、今までの自民党一党優位制下の派閥問の合従連衡による政権たらい回しと実質的に何ら異ならないことになる。これだけではない。我々は自民党政治を国体を無視し戦後デモクラシーに拝跪するが故に「亡国派」と規定して来たが、「小日本主義」と「中日本主義」が混在する新民主党も国体を無視し戦後デモクラシーに拝跪すること全く同断なのである。そうすると結局「二大政党制」は亡国派=自民党に加えて、もう一つ亡国派=新民主党が誕生するだけということになる。結局、国家民族が要請する世界史的世界国家建設のためには我々が標榜する「大日本主義」以外ないと言うことになる。
欧米における「二大政党制」はリベラリズム、コンサーバテイズムにしろいずれも共通の民族文化、精神文化から表出したものであって同根のものであり、それ故「二大政党制」の存在理由があるのである。小泉、安倍、小沢、菅が決して国体や歴史・伝統・文化を語らないことからはっきりしている様に、日本の来るべき「保守二党制」はともに伝来固有の精神文化、道徳、思想とは全く無縁の単なる外国の制度の崇拝模倣でしかない。大正政変によって成立した政友会−民政党の「保守二党体制」が外来制度の崇拝模倣であったが故に度し難い腐敗と抗争の末に自ら墓穴を掘ったように、戦後デモクラシーに拝跪する「保守二党体制」も全く同一の運命を辿ることは火を見るより明らかである。
「保守二党体制」は「ポツダム綱領総翼賛体制」、亡国派ともう一つの亡国派の政権たらい回しの最悪の政治体制であって、日本人自らの手による「第二の敗戦占領体制」の確立以外の何物でもないのである。



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