何処に思想の源基を置くのか?

平成13年9月1日

1 日本思想史の特徴

 かつて丸山真男は、日本の思想の特徴を「たこつぼ型」と呼んだ。その意味は、日本では各思想体系がお互いに関連なく併存、平行して消長してきたということである。すなわち、儒教、仏教、キリスト教、西欧近代思想といくつかの外国の思想体系が日本の歴史の中に流入してきたが、それらが一つの窯の中で混ざり合って熔解して一つのものとなることなく、それぞれがそれ自体の思想体系を保ったまま発展してきたというのである。それ故日本思想史とは日本儒教史、日本仏教史などの寄せ集めに過ぎず、そのいずれもがその中の要素として溶け込んでいるという形の一本の日本思想史はないというのである。
 確かに、日本には外来思想を摂取してこれを同化していく主体的思想つまり日本固有の思想というものは無かったと言えよう。したがって外来思想の体系を一度バラバラに解体して、固有独自の体系の中に組み込むということはなかった。しかし我々日本人は入り来る外来思想の体系はそのままにして、日本人の考え方や気質に即して所謂「日本化」するという操作は成し遂げしかも圧倒的成功を収めてきたのではないか。これを誠に簡単ではあるが、歴史的に検証してみたい。
 日本の歴史は有史時代をとっても非常に永く約二千年にも及ぶ。通常はこれを政治的な区分に従って縄文、弥生、古墳、飛鳥、奈良、平安、鎌倉、室町、江戸、明治と分けるのが普通であり、文化史的にも太古、古代、中古、中世、近世、近代、現代と分けるのが通説である。しかし外来思想体系の「日本化」という視点に立てば、私は日本史を明治維新の前後で大きく二つに分け、更に明治以前を「漢学渡来以前」と「漢学渡来以後〜明治維新」の二つに、明治以後を「維新〜敗戦」までと「戦後」の二つに分けるのが最も適当とかねてから考えている。その理由は明治維新以前は主として中国、インドなどのアジア文明を摂取したのに対して、明治維新以後はこれらと全く異質な西欧キリスト教文明の影響化に置かれた時期だからである。そして明治維新以前を更に二つに分けるのは、「漢学渡来以前」は外来思想の流入以前日本思想の源基とも言うべきものが涵養された時期だと考えるからで、「漢学渡来以後〜明治維新」までの西暦で言うと285年から1868年までのおよそ1600年間は儒教、仏教というそれぞれ中国、インドに根源を持つ外来思想が日本に流入したあと様々な試行錯誤を経て次第に本来の面目を失い日本人が完全に日本化した時期と考えるからである。明治以後については後で述べるとして、まずこれをみていくことにする。


2 外来文明移入前の日本思想

 近代以前の日本思想史は儒仏思想の摂取消化を主軸として展開する。儒仏外来思想の流入以前、我が国には固有の文字もなくまた特に見るべき思想というものもなかったといってよいであろう。ただ古事記・日本書紀の神話にみられる様に固有の民族信仰が行われ、その中から上代人のものの見方考え方をうかがい知ることができる。その特徴を概括的に云うなら、1)自然崇拝 2)現世的 3)国家的ということが出来る。即ち霊魂崇拝を始め天体崇拝から動植物に至るまで様々なものを崇拝し、天国・浄土の観念もなくむしろ死後の世界を厭い現世を最善の世界と考え生を嘆美し、そして様々なる神々の信仰も無秩序のものではなく天照大神を中心とした統一的世界をもっていたのである。やがて四世紀末から五世紀初めごろにかけて儒家の典籍がもたらされ、六世紀中頃に仏教が伝えられるに及んで本格的な日本思想史の黎明期が始まる。


3 仏教思想の摂取と同化

 黎明期の思想家の筆頭は何と言っても聖徳太子があげられる。聖徳太子は政治、文化の最大の指導者であったともに、漢籍や仏典の最初の理解者であった。聖徳太子は十七条の憲法にみられる様に、和を最高の徳としこれを実現する道は無私であると説き儒仏の思想を以て国家徳教の方針としたのである。聖徳太子以降、仏教は皇室及び貴族の尊崇を得て、造寺造仏を伴う仏教文化として奈良・平安朝に輝かしい発展を遂げた。平安初期に最澄・空海が出てそれぞれ一宗を開いて仏教の現世教化、国家教化を更に推し進めたが、しかしまだ仏教は輸入臭の抜けない難解な思想であった。平安末期から鎌倉初期にかけて戦乱が相次ぎ災害、疫病またうち続き世情は極端な不安に陥り、これに対して既成教団は堕落して救済の力を失っていた。こうした中時代の要請に応えてまず現れたのが法然の浄土宗であり、これに続く親鸞の浄土真宗であった。また中国より栄西が臨済禅を、道元が曹洞禅を相次いで伝え、最後に日蓮が出て日蓮宗を開きここに仏教の日本化が成就されるのである。本来超国家的出世間的教えである仏教の日本化つまり国家教化、現世教化を考える場合、その特色を最も徹底的に主張したのが日蓮であるから、したがって日蓮の思想を以て日本仏教思想の代表とするのが本来筋ということになる。しかし私は、後世に及ぼした影響の大きさから云って敢えて道元の思想を代表とみる。
 道元出色の第一は、政治との関係を絶ち日本仏教を始めて純然たる宗教ならしめたことである。仏教史を見て分かる様に、仏教は渡来の最初から殆ど国家の一事業として弘布されてきた。そのため仏教は僅か短期間で迅速に発展し国民間に確乎として根を下ろした反面、仏教は皇室・権門勢家と結び付き単に精神界の指導のみならず政治的特権層となり、道鏡の陰謀に典型的な様に国家の破壊と宗教の堕落を招来してきた。そのため平安遷都が行われるのだが、事情は全く変わらず政治との纏綿が依然として続き、仏教家は朝廷・政権の庇護の下に立つことを当然としかつ最も望ましいことと考えていた。鎌倉新仏教の始祖も同然で、日蓮の如きは度重なる国家諫暁の様に国家的立教をその宗旨としたし、道元の師の栄西も国家による興禅を唱え幕府による造寺寄進を当然のこととしていた。しかるに道元は独り権門勢家・政権に近づかず越前の山中に去って政治との纏綿を初めて断った。道元に至って日本仏教は初めてカイゼルのものをカイゼルに返したのである。
 道元出色の第二は、正信の思想に徹したことである。日本仏教が伝来の始めから行化より一変して学問化する傾向が顕著であったが、道元は決して仏教の学問と仏教の信仰を混同することがなく、「須く言を尋ね語を逐うの解行を止むべし」と文字修学を排し、「教の殊劣を対論することなく法の深浅を撰ばず、修行の真偽を知る可し」と真の信仰は唯座禅弁道によってのみ得られることを説いた。教学を無用として正信を重んじた態度は浄土宗と同じだが、浄土宗が易行の信に徹したのに対して禅宗は難行の行に徹する。ここに道元出色の第三がある。法然・親鸞が末法の世においては到底自力修行のよって証果を得ることが出来ず、只だ絶対の弥陀の大非大慈に縋りその不可思議の力によって極楽浄土に生まれ変わるしかないと他力易行を説いたのに対し、道元は「正像末法を分くことなし、修すれば皆な得道す」と謂い「人まさに正信修行すれば利鈍を分かず得道するなり」と説いた。また「仏法には修証これ一等なり」と言い、「人人皆仏法の器なり、必ず非器なりと思うことなかれ、依行せば必ず証を得べきなり」と修証一如を主張し、座禅を始めとする行住座臥の修業の難行道を以て唯一の救済の道としたのである。戒行の重視による自力難行の主張、ここに強烈な意思の発動を見ることが出来道元によって日本仏教は始めて新しい息吹を吹き込まれたである。
 思想の価値は感化力である。道元の森厳な教えは時頼の善政となって現れ時宗は断固として蒙古を撃退したのみならず、鎌倉武士の倫理道徳となってその後永く武士道の精髄となった。武士滅びた後もその精髄は教育勅語の中に昇華して近代日本人を鍛錬した。道元の現成公案の思想は現代にも生き続け、日本で初めて近代哲学を打ち立てた西田幾多郎の絶対無の哲学は殆ど道元の思想の体系化であり、ハイデッガァーの実存哲学にも深甚な根拠を与えた。また禅の思想は文学や芸術のうちに積極的に取り込まれて水墨や書跡、連歌、能楽、茶道などわが国独自の文化を涵養しただけでなく、今日近代ヨーロッパの科学技術に対するアジア精神文明の核として世界文明転成の一大契機になろうとしているのである。


4 儒教思想の摂取と同化

 儒教の日本伝来は応神朝であり仏教伝来よりも約一世紀半も早かったが、その後は仏教の様な華々しい展開をみせることはなかった。しかし儒教は、次第に現世的秩序の原理として国民各層の生活の中に定着していった。わけても鎌倉時代以後の武士階級に発達した武士道は、儒教倫理と禅の死生観に基礎をおく倫理思想であり国民的徳化に重大な影響を及ばした。儒教が思想として本格的に展開するのは江戸時代である。戦国の世を終わらせた徳川幕府が徳治主義の方針を採り幕藩体制維持のための思想的基盤として、儒学の一派である朱子学を奨励しこれを官学として採用したことによって急速な発達を遂げる。朱子学の興隆に伴って中江藤樹・大塩中斎の陽明学、伊藤仁斎・荻生祖來の古学派などの他の学派も次々に興り百花繚乱の様相を呈する。古学派は日本的特色を示したがそれさえシナを以て中華とし、あとはシナの儒学者の祖述に終始した。儒教の日本化・同化及びその後の国民思想に与えた深甚な影響の観点に立つならば、山崎闇斎以下の崎門派の思想を特筆しなければならない。崎門派の熱烈な尊皇思想は後期水戸学に影響を及ぼし、やがて斥覇倒幕の論理を用意し幕末維新運動の理論的支柱となってその門流から多くの志士が生まれる。それ故儒教思想体系の醇化・同化というならまず山崎闇斎を以てその筆頭に数えるのが筋ということになる。が私は、後世日本人の徳教に与えた深甚な影響から敢えて山鹿素行の思想に注目して儒教における日本精神の代表とする。
 山鹿素行は初め林羅山に朱子学を学ぶが後に朱子学から離れて一種の復古主義の儒教を称え、これが幕府の忌諱に触れて赤穂藩に流される。復古主義の傾向を強めるなか、次第に日本の歴史への覚醒を深め日本国体の尊厳を熱烈に説くに至る。こうして書かれたのが「中朝事実」である。「中朝事実」は上巻を天先、中国、皇統、神器、神教、神治、神知の七章に、下巻を聖政、礼儀、賞罰、武徳、祭礼、化功の六章に分け、各方面から日本の国体の尊厳を叙述したものである。その序文に「愚、中華文明の土に生まれて未だ其の美を知らず、専ら外朝の経典を嗜み、大いに其の人物を慕う、何ぞそれ放心なるや、何ぞそれ喪志なるや」と述べてシナかぶれの弊を批判し、本文で「本朝は天照大神の御苗裔として神代より今日まで其の正統一代も違い候事之無く、藤原氏補佐の臣迄世々不断して摂録之臣、賊子不義成る事之無き候故なり。是仁義之正徳甚だ厚く成る故にあらずや。・・・・・・況わんや武勇之道を以ていはば、三韓を挙げて本朝に貢ぎ物をあげ、高麗を攻て其の王城を落入れ、日本の府を異朝に設けて武威を四海にかがやかす事、上代より近代迄然り、本朝之武勇異国までも恐れ候得共、終に外国より本朝を攻取る事はさて置き、一カ所も彼地へうばわれる事なく・・・・然れば知仁勇の三は聖人之三徳也。此の三徳一つかけては聖人の道に非ず。今此の三徳を以て本朝と異朝とを一々其の印を立てて校量せしむるに、本朝はるかに勝れり、誠にまさしく中国と云うべき所分明なり。是更に私に云うにあらず。天下之公論なり、上古聖徳太子ひとり異朝を尊ばず、本朝之本朝為る事をしれり」と君臣の上下の分を明らかにして万世一系であること、仁義の徳厚いこと、歴代の聖徳、勇武の徳他国に比類なきことなどを挙げて我が国の尊厳を説く。朱子学を始め当時殆どの儒者がシナを以て中華・中国とし日本を以て東夷・野蛮とした不見識に対して、日本こそ万邦に卓越し文物武徳ともに他に勝っている中華文明の地として中国と呼び、日本中心主義を主張する。水戸学も国学も未だ勃興せず儒学者の多くがシナかぶれの弊に陥っていた儒教全盛時代に、独り素行が儒学者でありながらその弊を逃れ日本的自覚に徹していたことはやはり特筆されなければならない。
 素行は同時に熱烈な武士道精神の鼓吹者であった。思想の価値は影響力つまり生命力と感化力にあるが、この点でも素行は日本儒教の中では筆頭である。赤穂四十七士の義挙は素行思想の影響を直接受けたもので、それが後世国民の徳教に与えた影響は今更いうまでもない。幕末の志士吉田松陰が僅か十一歳で藩侯の御前で素行の武教全書を講じた様に、その強烈な日本精神は殆ど素行から受けた感化であった。また乃木希典が素行の中朝事実を日頃愛読し、昭和天皇御幼少の砌涙ながら御進講した話しも有名である。素行によって醇化された儒教は日本主義、武士道精神として結実し、やがて教育勅語に昇華して国民的道徳となるのである。


5 神道の転成と自立化

 儒仏など外来思想の流入が始まると固有の民族信仰である神道は次第に圧伏されるが、しかし消えて無くなるということはなく神道の理論化が試みられた。平安時代の両部習合神道、鎌倉時代の外宮神道、室町時代の唯一神道、江戸時代の垂加神道などがそれである。しかしこれらは結局儒仏の理論の借用の域を脱することが出来なかった。こうした儒仏中心の日本思想史に反発したのが江戸時代中期に出た本居宣長である。宣長は三十五年を費やして四十八巻からなる古事記伝を完成する。この間に到達した思想が古道説で、思弁的で煩瑣な儒仏の理論を「からごころ」といって排斥し、日本の古代においてはそういう理論がなかったのは「神のつくりたまいし道」の事実があったので道の議論は必要でなかったからであるといい、日本人は言挙げ(ことあげ)せぬ古道に還るべきであると主張した。
 宣長によれば、古道とは天地万国を一貫せる真個の道である。この道は思索作為の結果に成れる道理や道徳ではなく、我が国の古典に伝えられし上代の「事実」に他ならぬ。それは我が国のみに正しく伝わり、外国では既にこれを失っている。それは古事記・日本書紀の二書就中古事記によって正しく伝えられた自然の道である。この自然の道さながらの事実ということが、古道と儒仏の教えとの根本的相違である。不幸にして従来古道は仏教、儒教の道理に曲解せられ附会せられ利用せられて、その真面目を覆われてきた。故に真に古道を知らんと欲せば、まず「第一に漢意儒意を清く濯ぎ去りて大和魂を堅くする」ことが肝要である。また曰く「天地は一枚なれば、皇国も漢国も天竺もその余の国々も、皆同一天地の内にして、皇国の天地、漢国の天地、天竺の天地と別々にあるものでない。されば其の天地の始まりは、万国の始まりである。然れば古事記・日本書紀に記された天地の始まりのさまは、万国の天地の始まりのさまである。然れば其の時になり出給へる天之御中主神以下の神たちは万国の神たち、日神は万国を照らし給ふ日神に他ならぬ。然るに若し此の神たちを、ただ日本のみの神とする時は、天地の始まりも又日本のみの天地の始まり、日神も日本のみの日神にして、異国の天地日月は別のものとなって来る。されど、天地日月が国によって異なる如きことは有り得べき道理でない」と。更に、高天原を支配し、今日に至るまで宇宙万物に無限の恩恵を与えている天照大神の皇孫が「宝祚の隆なること当に天壌と共に窮まり無かるべし」との神勅を受けて君臨し給へるもの、即ち日本国である。故に日本は万国の元本大宗たる国である。これ神代の伝説がこの国にのみ正しく伝えられし所以、皇統の一系連綿たる所以、外国の凌辱を受けざる所以である。然るを儒者が只管唐土を誉め尊んで、何事も彼の国をのみ勝れたように言い、却って我が国を見下ろすが如きは非常なる心得違いの沙汰である、と。強烈な日本主義の主張がみられ、日本人はここに初めて自らの思想と信仰の理論化に成功する。
 常に言う様に思想の価値は感化力である。宣長によって大成された国学を実践に結び付けたのが平田篤胤である。篤胤は宣長の説を祖述して古道大意を著し、国学的古道論を徹底して従来の神道はもとより儒学、仏教を攻撃して復古神道の宣揚に努めた。復古神道は幕末黒船の来寇によって国民的自覚が喚起されるや忽ち全国を席巻し、尊皇攘夷の政治運動となって現れついに大化改新、武門政治の創立と相並ぶ偉大な改革を生むに至ったのである。篤胤の門下から佐藤信淵が出て宇内混同秘策を著し、国学に立脚した雄大な理想国家の説を立て日本人として初めて積極的世界経綸を論じた。これは下って大正末期に北一輝の国家改造法案大綱に深甚な影響を及ぼすことになる。


6 近代西欧思想の流入と昭和維新運動

 この様に本来全く異質な儒教、仏教の外来思想は移入から永い年月を経て次第に日本化つまり現世教化・国家化し、日本人の血肉と化して我々の精神生活を豊富ならしめた。名は儒仏を冠しているが、孝を基とする儒教は忠君愛国の思想と化し、超国家・脱世俗の来世教の仏教は現世利益の教えと化しその実体は本来の思想とは似て非なるものとなった。「2 外来文明移入前の日本思想」の特質である「1)自然崇拝 2)現世的 3)国家的」が如何に強靱性をもって外来思想を「日本化」してきたか、が了解されるであろう。今我々は神仏を尊び神社仏閣に敬虔な祈りを捧げるが、神と仏を厳密に区別して異なる祈りを捧げることはない。拝礼の対象は神と仏と異なっても祈る心は殆ど同一で、国家太平・家内安全、招福除災ということであろう。儒仏と神道は江戸末までにそれぞれが日本主義化して混然一体となって一つの国民思想・国民文化を形成するに至ったのである。つまり日本人は入り来るアジア文明を完全に日本化し、アジア文明の宝庫としてアジア文明を代表する日本文明を築き上げたのである。今日良く使われる「日本の歴史、伝統、文化」とはこの謂いである。
 こうして日本は近代つまり西欧キリスト教文明との接触の時期を迎える。日本の近代は明治維新に始まる。明治維新は王政復古の大号令に「神武創業の始めに基づき・・・・」とある様に、復古神道を基調とする政治革命であった。しかし近代西欧との接触によって成立した明治日本はやがて復古神道の道を捨てて欧化・近代化の道を辿ることになる。しかし非ヨーロッパ地域に於けるヨーロッパとの接触には植民地化の危険が伴っていたので、欧化による近代化の道とともに欧化を拒むナショナリズムの方向という相互に逆なベクトルが作用し深刻な文化的精神的分裂に陥る。思想家個人としても、福沢諭吉や内村鑑三の様にナショナリズムをバックボーンとする近代思想家があり、徳富蘇峰の様に平民主義から国権主義への転身を図る思想家も現れた。また高山樗牛の様に思想的立場を二転三転する者もあり、夏目漱石の様に文化的分裂に苦悩して一時精神分裂に陥る者まで現れた。近代日本思想史が如何に苦悩に満ち満ちたものであったかがわかろう。
 欧化主義とナショナリズムは明治全期を通じて間欠的に対立したが、こうした深刻な相克が頂点に達したのが大正期であった。ロシアに史上初の社会主義革命を勃発し社会主義思想は世界中で空前の高揚を示し、第一次大戦で戦勝国となったアメリカは英仏に代わってデモクラシーの宣布者となり、社会主義と自由主義という新たな欧化主義の世界思想が日本を席巻し、日本は新たな思想的分裂政治的危機に引き裂かれるに至る。危機は思想的政治的危機に留まらず、更に昭和に入ると欧米諸国は一致して外圧を強め日本は国家存亡の対外的危機に曝される。ここに至って日本人は一躍国家意識に目覚め、自己のアイデンティーを真剣に模索し始める。即ち西田幾多郎門下の京都学派は欧米優位の世界史の転換を唱え、文化人は近代の超克を首唱し、民間国家主義者は政治文教の刷新を唱えて第二維新を叫けぶ。こうした流れは一つに結実して、昭和十二年文部省は「国体の本義」を刊行するに至る。
 「国体の本義」は政府の手に成るものであるが、それだけに外来思想の来歴と本質を余すところなく剔抉し混迷に陥った国民思想に対する向かうべき方向性を明確に指示する。曰く「西洋近代文化の根本的性格は、個人を以て絶対独立自存の存在とし、一切の文化はこの個人の充実に存し、個人が一切価値の創造者、決定者であるとするところにある。従って個人の主観的思考を重んじ、個人の脳裏に描くところの観念によってのみ国家を考え、諸般の制度を企画し理論を構成せんとする。かくして作られた西洋の国家学説・政治思想は多くは国家を以て個人を生み、個人を超えた主体的な存在とせず、個人の利益保護、幸福増進の手段と考え、自由・平等・独立の個を中心とする生活原理の表現となった。従って恣な自由解放のみを求め、奉仕という道徳的自由を忘れた誤れる自由主義や民主主義が発生した・・・・・・・西洋近代思想の帰するところは結局個人主義である。而して個人主義文化が個人の価値を自覚せしめ、個人能力の発揚を促したことはその功績といわねばならぬ。しかしながら西洋の現実が示す如く個人主義は畢竟個人と個人、乃至は階級間の対立を惹起せしめ国家生活・社会生活の中に幾多の問題と動揺とを醸成せしめ」と西洋文明の本質を剔抉し、「今や我が国民の使命は国体を基として西洋文化を摂取醇化し、以て新しき日本文化を創造し、進んで世界文化の進展に貢献するにある。我が国は夙にシナ・インドの文化を輸入し、而もよく独自な創造と発展とを成し遂げた。これを受け継げ国民の歴史的使命はまことに重大である。現下国体明徴の声は極めて高いのであるが、それは必ず西洋の思想・文化の醇化を契機としてなされるべきであって、これなくしては国体の明徴は現実と遊離する抽象的のものとなり易い。即ち西洋思想の摂取醇化と国体の明徴とは相離るべからざる関係にある。世界文化に対する過去の日本人の態度は自主的にして而も包容的であった。我等が世界に貢献することはただ日本人たるの道をいよいよ発揮することによってのみなされる」と日本国民の将来の歴史的使命を明らかにする。近代西洋文明に対する日本人の解がここにはっきりと出たのである。


7 国民思想の混迷と日本思想の課題

 しかしながら大東亜戦争の敗戦は、明治以来培われた日本人の思想・信念を根底から覆した。「国体の本義」で明示された日本文明の歴史的使命も敗戦とともに唾棄された。覆された最大のものは国体つまり天皇の観念である。天皇統治の観念は明治憲法と教育勅語によって支えられていたが、それは明治権力者の恣意的創作ではなく「皇祖皇宗ノ後裔ニ貽シタマヘル統治ノ洪範ヲ紹述」したものであり、先に見た様に儒仏神三教の日本化によって達成された国民思想によって支えられたものであった。しかし占領軍は明治憲法と教育勅語を廃止し、これに代わるものとして西欧近代民主主義思想を押し付けた。その具体化が日本国憲法である。日本国憲法はロック以来の自然法思想、契約の観念に基礎をおく西欧民主主義の観念的祖述で、日本の歴史・伝統・文化に一顧さえも与えないものであった。この思想は既に西欧思想受容以来自由民権運動、大正デモクラシー思想として存在していたので、日本人には必ずしも木に竹をついだ様な異質なものの受容とはならなかった。しかし日本人の主体的営為による結果ではなかったため、日本人がかつて自由民権運動、大正デモクラシーで経験した騒擾よりも、遙かに深刻な害悪を次第に撒き散らすこととなった。
 この様な状況のもとにあって個人の考え方を支えた思想の一つは、アメリカで発達したプラグラティズムであった。そしてプラグラティズムの浅薄な理解は生活の思想としてやがて所謂ドライな感覚を作り出して悪しき個人主義の全盛へと至る。また戦後思想の明瞭な特徴として理想主義の凋落があり、真摯な思索者には本質や理想の追求よりも、現実にある自己の存在の真実を探求するという実存主義が好んで迎えられた。しかしこうした雑多な思想形態の流行は国民思想を一種の混迷状態に陥れ、これに対する不満が一部の人を熱狂的な宗教に向かわせている。実に新興宗教の盛行は戦後日本の度し難い特徴なのである。こうして戦後日本は未曾有の経済的成功にも拘わらず、かつて三島由紀夫が道破した様に「日本は日本でなくなって、その代わりに無機的な、空っぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目のないある経済大国」として深刻な「魂の空白」に落ち込んでゆく。
 かつて日蓮は立正安国論で「夫れ国家は人心の上に存し、人心は教法によって定まる。若し一国の教化を謬らんか、人心日に危からん。人心危からんに、国家何ぞ安泰なるを得ん」と喝破したが、教法を国民思想と置き換ればその警句は今日でも十分に通用する。誇栄を誇った経済大国ぶりも今や傾斜日々に著しく、道徳倫理の崩壊人心人倫の荒廃その極に達し戦後日本人が誇りとするべきものは灰燼に帰しつつあるのである。所謂「第二の敗戦」である。その因は挙げて「第一の敗戦」後の狂乱に求められなければならない。
 我々日本人は既に述べた様に、江戸末までに儒仏の外来思想を同化し強靱な国民思想として明治維新を成し遂げ、そして更に新たに入来たる西欧近代思想の本質を剔抉して真に向かうべき日本思想の方向性を明らかにした。かつて大川周明はこの間の事情を考察して「日本文明の偉大は入り来るすべての文明にその向かうべき方向性を与えるにあり」と道破した。日本人の偉大な魂はすべてを受け入れて己れの精神を豊にし、かつ一切のものに真個の意義と価値とを与えて来たのである。インドに生まれた仏教はインドに滅んで日本に栄え、儒教は発祥の中国に滅んで日本人の道徳を陶冶した。だとするならば、西欧キリスト教思想との格闘はその非を捨象して世界文明を表現すべき真個の大日本文明を創造することにある。キリスト教や西欧近代思想の日本化の問題はまだ将来に残された課題であるが、しかし求める解は既に日本人によって与えられているのである。問題は今の日本人がこの自覚に立てるか否かの一点にあるのである。


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