小泉新政権を如何に捉えるか?

平成13年5月1日

 橋本優位の下馬評を完全に覆えし小泉が総裁選を圧勝、そのまま首相に選出されて小泉新内閣が発足した。圧勝の余勢を駆って組閣も旧弊を打破してほぼ独断専行で行われ、田中真紀子を初め女性が大挙5人も入閣、3人の民間人の入閣と併せ過去に例を見ない独創的にして斬新な陣容となった。
 内閣発足直後の世論調査ではいずれも90%に迫る圧倒的な支持を集め、改革をスローガンに掲げて発足した新内閣を国民が熱狂している様が如実となった。それではこうして発足した新政権に対して、新民族主義派は如何に対処すべきなのか?
 まず新政権の基本的特徴を剔抉し、次に新政権の目指す基本的方向性の何を問題とすべきかを論じ、ついで参院選と政界再編の展望を述べ、最後に大日本主義を目指す我々が新政権と対決すべき重要点を明示することとする。


新政権の性格と特徴

 新政権の特徴的性格を挙げるなら、まず第一に指摘しなければならないのは戦後初めて成立した「中日本主義」政権だということである。小泉の総裁選中の公約、総裁会見、総理会見における構造改革、憲法改正、集団的自衛権の行使の容認、外国人参政権付与反対、靖国公式参拝などからも明白な様に、その目指す基本理念、政策は現代日本の政治潮流を大きく大日本主義ー中日本主義ー小日本主義に大分するならば、明らかに「中日本主義」である。これまでの自民党歴代政権はたとえばあのタカ派といわれた中曽根でさえ、政権の基本的方向として憲法改正、集団的自衛権の行使の容認、靖国公式参拝を明言することさえできなかった。戦後一貫して自民党政治の主流は保守本流=吉田ドクトリン=「護憲・経済復興」=「小日本主義」の忠実な祖述であり、これまで一度として「憲法改正」を首唱する者が政権を組織することはなかったのである。
小泉

 かつて小沢一郎が「中日本主義」を強靱に主張したが、党内抗争に敗れ野党に転落して、ついぞ政権を獲ることができなかった。こうした歴史に徴するならば、憲法改正、集団的自衛権の行使の容認、靖国公式参拝を明言する政権が初めて出来たことはまさに画期的と言わなければならないのである。
 第二は、構造改革、首相公選論の首唱に明らかなように、本格的な「改革」を目指すこれも戦後初めての政権であるということである。
周知の様にこの十年、「改革」という言葉は時代を象徴するキーワードであった。冷戦の崩壊によって戦後国際秩序が根本から無効に帰し、これと踵を接するように国内で盤石を誇った自民党一党優位制も音をたてて瓦解し、まず政治の「改革」ということが声高に叫ばれた。その改革派の輝けるリーダーが小沢一郎で、小沢はイギリス流の議会主義の徹底を唱導して大衆の人気を博したのだった。しかし小沢の首唱は自民党に受け入れられず、結局小沢は自民党を脱党し野党と連携して改革を目指すことになる。しかし基本理念、政策においてまさに水と油の社会党や公明党と連携したため、その「改革」戦略は敢え無く挫折に追い込まれ今やすっかり政局の中心からはずれて不遇をかこっている。

 これに対して小泉は、政治改革においては小沢流の議会主義の徹底とは逆の行政権の強化を目指す首相公選論を首唱、併せて小沢改革論華やかかりし頃から急速に悪化の坂道を転げ落ちる経済に対しても原理主義的な構造改革を唱えるのである。自民党のうちにふんばった小泉は「解党的出直し」を訴えて総裁選を圧勝、かつての小沢に代わって「中日本主義」および改革派の輝けるリーダーとなったのである。世界が要請しかつ日本そのものの渇望が「中日本主義」だったからに他ならない。
 第三は、その総裁、総理選出過程がまさに実質的に首相公選であった点である。
 自民党総裁選の大勢を決したのは予備選における小泉圧勝の激流であった。この激流を受けて亀井は本選を辞退し、橋本の敗北が確定したのであった。今度の予備選は党員の選挙でありながら、しかし実質的に国民全体の意思の代弁としての機能を担い、総裁選は実質的には地方の予備選の結果をもって総裁を決定したと言って過言ではない。議院内閣制の本旨からすれば第一党の領袖が内閣を組織するが、その領袖は議員によって選ばれるのである。しかし今回、この原則を越えて本選の前の予備選の結果が首相選出の決定的な決め手になったのである。正に実質的な首相公選制と言わなければならない。そしてその結果、小泉は過去に類例がない望外の強固な権力基盤を手中にしたことに注意しなければならない。


何が問題か?

 こうして国民の圧倒的な支持を受けて小泉政権が発足したが、それでは小泉政権の何を問題とすべきであろうか。
 まず第一は、骨を断ち肉を削る改革が断行できるか?である。
改革は二つあり、まず宿弊の自民党政治=派閥政治を打破できるか、次は日本そのものの構造改革を実行できるかである。前者は党役員人事で派閥政治の権化である橋本派、亀井派を排除し、後者は真紀子、石原、竹中を新たに配し陣容は一応整えた。しかし、三役人事から排除された橋本派、亀井派は早くも反撃の機会を狙っている。また、構造改革で一番打撃を受けるのは当の自民党の利益誘導政治=集票システムである。自民党の存立基盤を全否定する大胆な改革を守旧派の抵抗を排除して断行できるか、新政権の命運はまずここにある。
 構造改革の断行という最大の課題については布陣上から問題を孕んでいる。小泉は構造改革の切り札として民間から竹中平蔵を起用した。竹中は原理主義的な構造改革論者であり、小泉と同じく構造改革なくして景気回復は不可能と断言している。一方自民党の政策決定の要となる麻生政調会長は構造改革のためにはまず景気回復が必要と主張している。つまり政府と与党の経済政策の責任者が全く相反する主張をしているのであり、この齟齬は必ずや折りに触れて顕在化するであろう。実質的な首相公選によって大統領的権力を手中にした小泉がこれをどう捌くか、決断を迫られるのはそう遠いことではない。その時、総裁選で展開されたと同じ論争が朝野に巻き起こるのは必定で、小泉構造改革は最初の試練に見舞われることになるであろう。

小泉

 第二は、改革断行のために強固な権力基盤を構築できるか?である。
 すでに述べた様に、自民党守旧派の抵抗は必至である。そしてその抵抗も当然死力を尽くしたものとなるであろう。連立の相手である公明党=創価学会も本質的に守旧派であり、改革の各論に入れば掌を翻し死力を尽くして抵抗に回るのは間違いない。それ故改革の強固な権力基盤を構築するためには現在の連立の枠組みを一度ご破算にして、総裁選中に言及したように民主、自由各党に拡散した保守改革派を再結集して「救国内閣」を作るしかない。この構想は今回は実現しなかったが、小泉構造改革の進展とともに、そして参議院選挙を睨んで必ず近い将来政局の焦点となるであろう。即ち保守再結集??政界再編である。しかし結論を先に述べれば、この八年の派利派略、党利党略の狂騒からみて結局不可能であろう。詳しくは次に述べる。

 第三に、公約を実行できるか?である。
 小泉は自民党歴代政権がこれまで一貫してうやむやにしてきた憲法改正、外国人参政権付与、集団的自衛権の行使、靖国神社公式参拝などについて、いずれもはっきりとした姿勢を明確にした。ここに小泉「中日本主義」政権の特徴的性格があるのであり、熱狂的な小泉人気もこれらを熱望する国民の声なき声の直接的反映でもあった。しかしこれらはいずれも連立を組む公明党=創価学会及び中・韓が頑強に反対している。国民の熱望を実現しようとすれば連立を組む公明党=創価学会の反発は必至であり、中・韓も嵩にかかって猛反発することは確実である。逆に、公明党=創価学会との連立を優先し中・韓等の国際関係を配慮し公約実現をサボタージュすれば、小泉人気を支えた圧倒的多数の国民の期待は忽ち失望と化すであろう。小泉の公約は二律背反的危機と背中合わせなのであり、特に外国人参政権付与は今国会中の決着が迫っており、靖国公式参拝もすぐ8月に迫っている。もし公約を裏切って「永田町の論理」に埋没したり、中・韓の干渉に屈するならば、期待は忽ち失望と化して支持率は急落して政権は崩壊的危機に直面することになろう


参院選と政界再編

 熱狂的な小泉現象を今一度説明するならば、まず第一に世界が要請し日本そのものの渇望である「中日本主義」を時宜的に体現しているということである。冷戦崩壊以降我が国は国力に相応しい世界史的貢献を求められており、日本そのものも占領憲法の弊衣を脱ぎ捨て国力に相応しい世界史的秩序形成を必要としている。かつて小沢が首唱した「中日本主義」を小沢の失脚とともに、代わって小泉が人格的政治的に表象し総裁選で国民的熱狂を博したのである。
 第二は勿論、その大胆「な改革」が泥沼的不況に喘ぐ国民に熱狂的支持を受けていることである。この十年改革は悉く小手先の中途半端に終始し一向に景気は回復せず閉塞に陥っており、最後の切り札を小泉「改革」に求めたと言える。
 第三は国民が民主党、自由党への政権交代よりも自民党の内部的な権力交代を望んだこと、換言すれば「二大政党制」を国民が見限っていたことである。平成政変即ち自民党一党優位制の崩壊以降、政治改革の最終目標は「二大政党制」の確立とされた。しかし理念や基本政策に基づく政界再編はついに実現せず、与野党に「中日本主義」と「小日本主義」が錯綜し些細な小異をあげつらって狂騒を現出してきたのである。こうした中腐敗を極め政策的にも機能不全に陥った自民党の総裁選で、小泉が「解党的出直し」を強烈に訴えて国民の共感を呼んだのである。結局、自民党の党内権力交代が「二大政党制」に代替する機能を果たすというかつてのパターンに戻ったのである。

細川内閣

虚しさだけが記憶に残る細川内閣。あれは幻だったのか。

 それでは今後、政局は如何なる展開を辿るであろうか。見るべき要点を三点に集約して述べたい。
 まず第一は、小泉が自民党守旧派の抵抗を排除してどこまで党改革を断行できるかである。国民は野党への政権交代よりも、小泉の「解党的出直し」を期待しているのであるから、このところに注目しなければならない。自民党守旧派は「小日本主義」と呼び変えてもよいであろう。小泉が公約した「中日本主義」をどれだけ実現できるか、まずここを注視しなければならない。第二は小泉の登場によって、存亡の危機に追い込まれた鳩山=民主党、小沢=自由党が小泉「改革」にどう対処対応するかである。小泉総理で困惑しているのはなにも野中や亀井や池田大作ばかりではない。むしろ一番当惑しているのは野党の面々であろう。なぜなら小泉改革政権の誕生によって、鳩山=民主党、小沢=自由党のこれまでの「改革」の大義名分が瞬時に吹き飛んだと言って過言ではないからである。しかも「改革」の中身においても、小泉改革は鳩山=民主党、小沢=自由党の「改革」を遙かに凌駕しているのである。だから現状打破を求める国民は鳩山=民主党、小沢=自由党の野党に向かわず、自民党の小泉改革を熱烈に支持したのである。そうだとすれば、小泉改革政権の誕生によって鳩山=民主党、小沢=自由党はまさに存亡の根底的危機に逢着していると言わざるを得ないのである。そして存亡の根底的危機に直面するが故に鳩山=民主党、小沢=自由党は嵩にかかって小泉改革路線との対決を叫び始めている。都議選、参議院選を目前にしており、独自的党派性を鮮明にしなければならないからに他ならない。しかし大同小異の「改革」は鳩山=民主党、小沢=自由党の内部に、小泉改革か党派的独自性か、の深刻な亀裂を必ずや惹起するであろう。
 第三はやはり目前に迫った都議選、参院選で小泉自民党がどれだけの勝利を収めるかである。小泉改革路線への国民的熱狂、世論調査で如実となった圧倒的な支持率率から言って、自民党の勝利はほぼ間違いないと言ってよいであろう。問題はどれだけ勝つかである。いや、小泉はこの国民的支持の好機を捉えて衆参同日選挙の賭けに打って出る可能性が高い。その場合もどれだけ勝つかが問題である。もし圧勝すれば、連立は吹き飛び野党は再編に追い込まれるし、単独過半数でも同じことが起きよう。いずれにせよ小泉は抜本的改革に向けた強力な権力基盤を構築できることになるが、その勝ち方如何が小泉改革の成否を占うことになるのである。


何を問題とすべきか?

 この様に参院選、場合によっては衆参同日選の洗礼を受けて小泉改革は本格化して行くことになる。これはまた「中日本主義」が国民的信認を受けて、「小日本主義」が淘汰されて行く過程でもある。「中日本主義」は世界史の要請であり日本そのものの渇望であるが、しかしそれは「小日本主義」に対してであって、「中日本主義」も我が国が到達すべき目標である「大日本主義」からすれば単なる通過儀礼でしかないのである。
 それでは小泉「中日本主義」改革の何を問題とすべきか。
まず挙げなければならないのは、構造改革である。構造改革という言葉は今や呪文と化した感がある。ニューデール以来半世紀以上も世界を席巻したケインズ主義=社会国家の理想が破産し、新古典派的改革=市場主義が新しい経済社会原理になりつつあることは理解できる。しかし今叫ばれている構造改革がアメリカの実験を経たと同じものであるなら断固反対せざるを得ない。クリントンの市場主義改革によってアメリカ経済は確かに立ち直った。しかし「分裂するアメリカ」といわれる深刻な社会分裂を呈しているのである。国家社会が共同体で国によって企業文化、経済風土が異なる以上、構造改革という原理、主義の導入に当たっても当然それに合致したものでなければならない。小泉の構造改革がアメリカ流の原理主義的な改革ならば断固反対しなければならない。
 次に、日米同盟についてである。集団的自衛権の行使は勿論当然のことである。小泉の様に「公海上」に限定する必要はない。また集団的自衛権の行使は憲法九条の封印を解くためにも必要である。同盟とは文字通り「共に血を流す」ことなのであるから、同盟の信義と国益が合致するなら地球のウラ側まで共同出兵すべきは理の当然である。まして戦略兵器の保有を禁じられ、北朝鮮・中国の軍事的恫喝に曝されている現在軍事同盟は必要不可欠である。しかし問題は「中日本主義」の日米同盟がアメリカ中心の片務同盟である点、日本に国家戦略が全くない点である。これでは「アメリカのため」という疑念を払拭出来ないであろう。「大日本主義」の日米同盟は日本中心の戦略同盟でなければならない。我が国はアジア・太平洋の中心とならねばならず、アメリカに代わって覇権を執らなければならないのである。
 最後に首相公選論に断固反対しなければならない。首相公選論者はいう。国民から直接選ばれるから強力なリーダーシップを発揮できる、国民が直接選ぶから国民の政治参加の意識が高まり政治不信が解消される、公選の首相も今と同じく天皇によって任命されるから天皇制と矛盾しない、と。しかし、首相公選制を導入したイスラエルの例やかつてのアメリカの大統領と議会の対立を見ても明らかなように政治が安定するとは限らない。逆にかつての「ノック・青島現象」のように衆愚制に陥る危険が大きい。独裁者が登場する危惧もある。政治不信が解消されるというのは自ら政治不信を惹起しながらその責任を国民に転嫁する暴論である。天皇制との矛盾はないというところは極めて危険である。君主制の国家で首相公選制を導入すれば、公選の首相は実質的に大統領と同じ機能と権能を担うことにならざるを得ず、天皇の御存在は今以上に希薄化し究極的には無用論が台頭することになる。また、天皇と大統領の併存はかつての朝・幕関係が正にそうであったように、必ず対立・摩擦を招来し伝来固有の国体を毀損するに至る。首相公選制は実質的な大統領制=共和制を日本に持ち込もうとするもので、必ず国体の変革に繋がるのである。 
 結局、首相公選論はアメリカの制度の模倣であり、制度信仰の愚策でしかない。国家はそれぞれ依って立つ政治文化を異にしており、他国の制度を模倣したからといって政績が挙がるというものではない。伝来固有の政治文化に立脚した政治制度であって、初めて政績が挙がるのである。破産した戦後デモクラシーが今みるように惨状を呈し破産したのは、この伝来固有の政治文化を全否定して欧米の政党政治を模倣したからに他ならない。だとするならば、戦後デモクラシーに代わる真制の政治制度の確立は、近代立憲政治の原点=君民共治にもう一度返るところからはじめなければならないのである。


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