今や祖国日本の混迷と頽廃は極限にまで達した。
大東亜戦争後三十有余年、今日内憂外患は極まり、有史未曽有の危機に立ち到らんとしている。
民族の自存、建国の理想を一顧だにしない敗戦日本の指導層、ひとつは米国に、またひとつはソ連、中国に叩頭阿諛して国患屈辱を顧みず、売国的実利の追求に窮々として国民を欺瞞し、またヤルタ・ポツダムの虜囚は軽率浮薄として日々の物質的満足と利己的幸福に酔いて国辱を顧みず、ここに只管バビロン―ユダヤ亡国の道にうち続かんとする。
国家天下、百年の大計と目標と進路を定めえぬその日暮しの日本は、それ故米国、ソ連、中国の世界争覇の歴史的現実に全く歯牙をかけえないまま疾風怒濤の渦中に翻弄されて国難を激成せしめ、かつ父祖が血涙の義戦百年をもって按撫したる亜細亜の諸国家、諸民族よりすら軽侮排日の屈辱をしばらく受けるに至っている。
国家、民族の真個の危機まさしく眼前に在り。現情況の腐敗的蔓延を放置し、根本の禍因を一掃廃絶するのでなければまことに幕末維新の内憂外患を我々の時代に再現せしめることは必定である。
近代日本の歴史的因果とは何か。
ひとつは明治維新、そして他のひとつは大東亜戦争である。この二つの難関を貫く固有の宿運は、しかし敗戦国家のデマゴーグが揚言するように決して全一の解決を与えられたものではない。否、それは今日なお我々の民族生活のもっとも深刻な呪縛でさえある。
西欧列強の亜細亜―日本への侵寇、それに対する民族の自存と自衛の確保とは、すなわち独自的世界形成に向かう聖戦として絶対の血路であった。
しかし、国家編成をめぐって、ひとつは脱亜入欧=資本主義路線へ、ひとつは亜細亜解放―社会革命路線へと分岐し、両者の拮抗のうちに思想的戦略的対決は根本的解決をみることなく混沌としたままで眼前の戦争に突入し、そこで物量戦に敗退した。第二の近代化=文明開化ともいうべき戦後には、だが一纏の抵抗の精神と苦悩なく全一の屈服と拝脆のうちに今日の「理想国」は憤激すべき腐敗を現出せしめている。
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