辛口コラム

書評その8
虚妄の平和主義や似非ナショナリズムが徘徊した時代と戦った知識人
狷介孤高、反近代の思想家・福田恒存が鮮烈に蘇った

『福田恒存評論集8』(麗澤大学出版会)を読んで

『福田恒存評論集8』

 福田恒存という思想家は「偉大なる常識家」である。
 したがって常識が通用しない時代に重宝されたのは当然だったにしても、ますます常識を失った現代日本において、ますます貴重な存在として輝き続けるのである。ちょうど評者(宮崎)は学生時代だった。

 本書に収められた評論の数々(ほぼすべての論文が昭和四十年から四十五年)を私は当時、夢中で読んだ記憶がある。学生運動真っ盛りの頃である。
 慶応、早稲田に端を発した大学紛争は、暴力的になって日夜激化し、昭和四十五年に赤軍派ハイジャックと三島事件へといたる。日本が騒然としていた。
 大学は荒廃し、教育が歪曲され、価値紊乱が方々で起きていた。福田は常識の回復を訴えていた。
 夢中で読んで、福田氏に講演に来てもらったことも数度。電話での長話も経験した。最初に講演を依頼したのは昭和四十二年だった。「戦後日本の知的退廃」とかの演題だった。
 感動したのは学生新聞の編集者風情を一個の大人として扱ってくれたことだった。
 このたび福田恒存評論集に改められると、私はどうしてもあの時代の感傷にまず浸ってしまう。左翼学生運動も論争も激動だった時代が、つい昨日のように脳裏に蘇るからである。

 たとえば昭和四十四年の『諸君!』創刊号に福田氏は次のように書いた。

 「大方の日本人は大東亜戦争の敗北によって『醜の御楯(しこのみたて)』としての生ける目標を失った。が、それを失うより早く手に入れた生き甲斐は戦争犯罪に対する懺悔の心であり、贖罪意識である。(中略)生き甲斐のごとき本質的な事柄において日本人の関心を引くのは、つねに心懸けであって行為ではなく、意であって形ではない」
 「必要なのは心の拠り所であり、それはすべて平和憲法に預けた格好になった。これは二重の皮肉である。第一に罪悪感という消極的な概念に生き甲斐を求めた事であり、第二にそれを積極的に誇りに転用したことである」(本評論集304p)。

 『平和憲法』なるものを後生大事な経典とした知識人は偽者だと皮肉っているのである。

 また福田恒存氏氏はこうも書かれた。

 「私はこの平和という名の武器の威力を信じます。隋って平和主義や中立主義を非現実的な観念論となし、その不可能を説く私を目して現実主義を言うのは当たらない。なるほど私も平和主義や中立主義の非現実性を非難して参りました。しかし、それが実際に非現実的で無効化ならば、わざわざ反対する必要はない」(中略)
 「平和という名の美しい花を咲かせた日本の薔薇造りは、そのヒューマニズムという根がいつの間にかエゴイズムという蟲にやられている事に、果たして気づいているかどうか。そのけちくさい、ちっぽけな個人的エゴイズムに目をふさぎ、今度は同じヒューマニズムの台木にナショナリズムを接木して、平和と二種咲き分けの妙技を発揮しようとしている」
 「ナショナリズムを口にする者が本当に日本民族の自覚を持っているのか」(中略)「ヴェトナムの民族主義を理解し得る様な口吻を進歩的知識人の言動に感じるとき、私は文字通り呆れ返ってものが言えなくなる」(初出は読売新聞、昭和四十年六月八日。本評論集、132p-133p)。

 「べ平連」なる似非知識人と付和雷同の学生らの団体が結成される直前に、はやくも似非平和主義の方向を予知し、批判しているのだ。

 昭和四十年代初頭、論壇は左傾化が激しかったが、その分、保守派文化人も『自由』や『文藝春秋』で健筆を振るっていた。『諸君』も『正論』も『ボイス』も創刊されていなかった。『サピオ』も『月刊日本』も、『WILL』もなかった。思想界では一方に林房雄、保田與重郎がいた。岡潔がいた。林の『大東亜戦争肯定論』は民族派のバイブルだった。三島由紀夫が『英霊の声』、『喜びの琴』などを書いて保守陣営に飛び込んできたのも、この時代だった。いきなり福田の大常識を飛び越えた保守論壇に加わってきたのだ。
 体制派御用の論客には猪木正道がいて、高坂正尭が登場したばかりだった。永井陽之助がデビューしてきた。
 保守の伝統的な論客らはミニコミ誌で活躍していた。竹山道雄や会田雄次が大車輪の活躍をする直前であった。福田は保守論壇のチャンピオンとして、その発言が逐一注目されていた。

「正気の狂気」が三島なら、福田は「狷介孤高」の士

 『論語』によれば、知識人には「狂」と「狷」がある。
 「子路第十三」に「子曰く 中行を得て之に与せずんば、必ずや狂狷か。狂者は進みて取り、狷者は為さざる所有るなり」。
 「狷介孤高」の士とは仕事がなかなかしにくく、狂の人は他人がしないことを率先して突っ走るという意味である。要は行動するか、評論に徹するか。
 山県有朋は青年時代を「狂介」と号した。陸奥宗光の号は「六石狂夫」である。
 吉田松陰も西郷隆盛も、そして三島由紀夫も「狂」の部類であろう。
 「狷者」なら岡潔も、板垣退助もそうだろう。そして、私は福田恒存を「狷」のほうに分類してしまう。
 三島事件が起きたときに林房雄は「正気の狂気」と比喩して三島の行為を分析した。

 「狷」のほうの福田は「わからない。わからない。私には永遠にわからない」という名文句を吐いて、以後、三島事件に関する論評を一切行わずに沈黙した。かわりに江藤淳が猪口才なことを言い募ったが、小林秀雄に叱責されたものだった。

 福田恒存の評論集は、一度文藝春秋から出た。昨年から全十二巻の新装版として、麗澤大学出版会から刊行が始まった。その第一巻は教育論、国語論、祝祭日、憲法論などが選ばれているが、最後に珍しく「乃木将軍と旅順攻略戦」が挿入されている。
 乃木将軍を無能と断じた司馬遼太郎への鋭角的批判であり、これを書かれたのが三島事件直前であったことも何かを象徴している。司馬の“乱世史観”なる似非歴史分析を透視して、『合鍵を持った歴史観』と木っ端微塵に打ちのめした。
 いずれの文章も想い出が深く、あの時代と自然に重複してしまう。



『福田恒存評論集12 問い質したき事ども』
(麗澤大学出版会)

『福田恒存評論集12』

清水幾太郎の「転向」に疑問符、あれは「出トチリ」と批判

 さて第十二巻は「問い質したき事ども」で、冒頭は清水幾太郎批判である。
 清水が『転向』したついでに、保守論断で当時もっとも派手に「核の選択」を『諸君!』に書いて、保守論客もあっと驚いたが、当時、福田はそれを読む暇がなく、しばし経って読み直し、これは「出トチリ」に過ぎないと激しい批判を書いた。1980年『中央公論』誌上である。
小生も『中央公論』をあのころは毎号、購読していたので真っ先に読んだ。
この年の記憶が、じつは個人的にも鮮明である。
六月十五日を期して(安保改訂反対デモで、その二十年前に樺美智子さんが死んだ日)、米国からフォード前大統領以下、上下両院議員と知事ら合計四十人ほどを東京に呼んで、「日米安保条約二十周年記念セミナー」を開催する準備が進んでいた。
米国は大統領選挙の最中、カーターを支援した宮沢喜一が官房長官で、ことあるごとにこの企画を妨害した。後日、レーガン当選と聞いたとき、宮沢は数時間、口がきけなかった。 セミナーの日本側は岸信介氏が議長格。実態は加瀬英明氏、三好修氏の「日本安全保障研究センター」と米国『ヘリティジ財団』だった。当時、ヘリティジ財団はいまほど有名ではなく、共和党系列のシンクタンクの一つという認識だった(レーガン政権に大量の人材を送り込んで、半年後にはいきなりワシントンの主流となるのだが、それは後日譚)。
準備のチームに自民党、民社党の国防議員らが支援した。当時の国防族の長は三原朝雄衆議院議員。裏方は小生やら三原朝彦氏(いまの衆議院議員)。イベントは、政治的タイミングが合わず、二ヶ月延びて同年八月末に東京で開催され、「安保条約の再改訂を検討しよう」ということになった。
 そうこうするうちに保守陣営のなかで大きな声となったのが「安保改定」議論なのである。片務条約から、日本の主権をもっと重視した双務条約へというのが基本である。
翌年に「安保改定100人委員会」が日本で発足し、加瀬俊一氏が議長となって、多くの保守系文化人、学者が駆けつけた。じつは清水幾太郎氏は、この準備会に何回か顔を出された。
しかし「最初の発起人には私の名前は出さない方が良いでしょう」と言っていた。
『百人委員会』の動きは米国議会で先に取り上げられたので、記者会見は内外記者団が押しかけ、米国マスコミも大きく取り上げた。そして爾後、まったく不思議なことに、この日本側からの安保改定議論は掻き消える。
福田氏の評論集で、この清水批判の箇所を読み返しながら、なぜか当該会議の準備で東京プリンスホテルに一週間ほど泊まり込んだ記憶が蘇った。

「わからない」と三島事件を表した福田氏の後日譚

 さて、清水批判など小生にとっては、どうでも良いことである。
むしろ福田氏が三島由紀夫を論じた文章をこの巻に見つけて「えっ」と声を挙げたのだ。事件後、福田氏は三島を論じたことがなかった筈だから。

 福田氏は、かく言われる。
 (直後にわからない、わからないと新聞に答えた氏は、)「もし三島の死とその周囲の実情を詳しく知っていたなら、かはいそうだとおもったであろう、自衛隊員を前にして自分の所信を披瀝しても、つひに誰一人立とうとする者もいなかった。もちろん、それも彼の予想のうちに入っていた、というより、彼の予定通りといふべきであろう。
 あとは死ぬことだけだ、そうなったときの三島の心中を思うと、いまでも目に涙を禁じ得ない。
 が、そうかといって、彼の死を「憂国」と結びつける考えかたは、私は採らない。なるほど私は「憂国忌」の、たしか「顧問」とかいう有名無実の「役員」の中に名を連ねてはいるが、毎年「憂国忌」の来るたびにそれをみて、困ったことだと思っている(中略)。二十年近くも(憂国忌を)続けて行われるとなると、必ずしも慰霊の意味だけとは言えなくなる」(中略)「憂国忌の名はふさわしくない。おそらく主催者側も同じように悩み、その継続を重荷に感じているのではなかろうか」と言う。
 理由は三島は自分の営為を「失敗」と考えて死んでいったからだ、と推論している。

 福田氏の推論が正しいか、どうか。
おそらく間違いであろう。三島は「自分の行為は五十年後、百年後でなければ分からない」と、その営為をむしろ後世の再評価に賭けていたのであるから。
 ともかく、この短い文章だけが、三島事件から十八年後、昭和六十三年に初めてかかれた「三島事件」への福田氏の感想である。しかも、不覚にも、それから二十年も経って、小生はじめてこのコメントを知った。なぜ記憶にないのか初出を調べたら、これは昭和六十三年の「福田恒存在全集」第六感の「覚え書き」として、つまり全集の購読者用に書き下ろされた覚え書きの中で記されてからである。

小林秀雄『本居宣長』を本格批評

 もうひとつ。小林秀雄の「本居宣長」を論じられつつ、面白いことを吐露されている。
 連載中、とびとびにしか読む時間的余裕がなかった福田氏は、小林秀雄自身から「単行本を読むまで次は会わないことにしよう」とぐさりと言われ、そのまま三年会わなかった、というのである。
三年という歳月!
 ようやく三年して時間的余裕が生まれ、氏は二週間もの時間を、この小林の大著を読むだけのためにあけて、ゆっくりと、『本居宣長』と向き合った。それが昭和五十五年の夏であったという。
この箇所は妙に納得できる。
小生自身、最初に小林秀雄の『本居宣長』を四日ほどかけて読んだものの、チンプンカンプン、古典から書誌学的教養がないと分からない。
「オカルトがわからなければこの本はわからない」と悔し紛れの理由をつけて、そのまま三十年近くも放擲したままの本であるからだ。
しかも福田氏の文章からも三十年近くが経過して、まともな小林秀雄の本居宣長を論じた論文は、昨年の西尾幹二氏『江戸のダイナミズム』までほとんどなかった。
 いずれにしても小生にとって福田全集を読み返していく営為の過程は同時に楽しい思考空間でもある。



『福田恒存全集3 平和論にたいする疑問』
(麗澤大学出版会)

『福田恒存評論集3』

 所謂『文化人』なる種族がいかに世間智を知らないか、唖然とするばかりだが、じつはこの状態が戦後一貫して続いているのである。とりわけ進歩的文化人とかいう人々は、市井に暮らす凡人が抱いている最低限度の常識さえない。
 次のような箴言がならぶ。

「人間社会から戦争は永遠に消えてなくならないでしょう。同時に、平和も、平和を望む気持ちも永遠に存続するでしょう。平和論者は、あらゆる進歩主義者の陥りがちな錯覚ではありますが、平和を望んでいるのは自分たちだけだとおもっています。或いは、戦争の悪に気づき、それを防いで平和を招集しようとする試みは、二十世紀後半にのみあらわれた新運動だとおもっています。なるほど、昔は署名運動などと、いふものはなかった。組織的、相関的な運動は第二次大戦後、はじめて起こったものです。しかし、それは世界が組織的、相関的になったからというだけの話に過ぎません」(198p)。

 こうも言われる。

「一般民衆が戦争をほんとうに嫌っているかどうか」。「わたしは元来、日本人を平和的な国民だとおもいます」、が「日本人は神経が細かくて、我と我との摩擦を嫌うのです。が、それが戦争を嫌う気持ちにはならない。逆説めきますが、それがかへって人々を戦争に駆りやる」(中略)
「なぜなら、国内の心理的な、法律的な、一事に言えば平時のごたごたは、私たちに精神の自主性を要求する。それに反して戦争となると、それをいっさい抛擲してしまふことができる。つなり最も激しい我の主張の場である戦場では、我を捨て去ることが出来る。自我の曖昧な日本の民衆は、とかくそういうふうに傾きやすい」ことなどを「わたしたちは、そういうことを十分に考へておく必要があるとおもいます」(213p)。

 本巻は第四回目の配本で、うっかり弐ヶ月前の全集を評者(宮崎)はまだ読まない裡に、新しい配本があった。今回配本のなかにはチャダレイ裁判最終弁論の「ロレンスの結婚観」が加わっている。
 いつ、どのページを開いても福田氏の論考には一定の安心感と鉄則があり、平易な言葉の中にきらりと箴言を忍ばせていて、考えさせられるのである。



実存主義は虚妄に過ぎないのではないのか(神は死んだ二十世紀には)
ヘミングウェイ『老人と海』は虚無と冷酷から倫理への通路をあけた

『福田恒存全集15 西欧作家論』
(麗澤大学出版会)

『福田恒存評論集15』

 福田恒存氏評論集のなかの作家論、今回配本(第十五巻)の中味は欧米作家が中心で、シェイクスピア、ローレンス、サルトル、チェーオフ、エリオット(エリオット会見記も併載)、そしてヘミングウェイ。
 福田の読者ならシェイクスピアとローレンス論に関して言えば、おそらく耳にタコができるほど聞かれたに違いない。
サルトルとエリオットも比較的よく読まれている筈だろうが、『老人と海』を訳した福田氏がヘミングウェイに関して評論を綴っていたことはすっかり忘れていた。
 というより発表年月を確認したところ、サルトル論は昭和23年、ヘミングウェイ論は昭和28年。これでは評者(宮崎)はものごころも付かなかった幼年時代ゆえに読んだ記憶もないのは当然だった。

 そこで本欄ではサルトルとヘミングウェイの箇所を取り上げる。

 終戦直後の精神的空白時代にサルトルの『嘔吐』が日本で一大ブームとなった。昭和23年の時点で、福田氏は、まずその怪しげなブームを訝って「インテリゲンチアにとってそれ(嘔吐)はどこかに本質的な魅力を持っているのか」、「知識階級のうちに実存主義を受け入れようとしている空洞」と比喩し、でまわったサルトル論は「無用の饒舌にすぎない」と一刀両断。
 『実存主義』なるものは似非知識人が飛びつきそうな空虚な考え方だが、福田氏は続けてこういう。
「なにが其れ(存在の意味)を正常化しうるか。かつては神がその役割を引き受けていた。が、神が死んでしまった二十世紀においてはたしてなにものがそれにこたえうるか。いや、真相はなにものも、それをなしえない。神すら甚だしい虚妄にすぎず、たんなる自己欺瞞でしかない。ルネサンス以後のヒューマニズムすらこの汚名を免れるものではない」
 つまり「実存主義もまた虚妄にすぎない」と歯切れ良く締めくくる。
 戦後すぐの時点でこれほど鋭角的に実存主義なる怪しげな思想をあばいてみせた福田氏だったのに、それから十数年もあとにサルトルにかぶれた大江健三郎が、左翼の風潮を背景に文壇にデビューし、伝統的な日本文学をおおきく毀損するに至るのだが、それは後の祭り。

 ついでヘミングウェイに関して、福田氏は本論に入る前にアメリカ文学の歴史を俯瞰し、社会主義的、文明批評的な小説が多く、欧州のような文学伝統の土壌がないところでアメリカ文学が育っていたが、と前置きしている。
 だからパリのカフェで「あなたたちはロスト・ジェネレーションね」と有名な女流作家にヘミングウェイは揶揄された。それもまた有名な話であろう。
 だが福田氏は『老人と海』を読んで、おなじ虚無主義の多いアメリカ人作家のなかで、ヘミングウェイに一種のストイシズム、イギリス清教徒の子孫としての倫理的なものを直感的に発見され、次のように言う。
「その虚無的な否定と冷酷な突き放しとにもかかわらず、むしろその反対の旺盛な現実肯定ないし現実謳歌を感じとる」
 以前のヘミングウェイは「敗北者に同情を抱かない」。「勝ち抜き、生き抜く」男の冷酷と、思想のなさ、倫理のなさを描いてきたが、『老人と海』でトーンが変調していることを直感的に福田氏は感得したのだ。
つまり「否定を肯定に転換する」のが『老人と海』である。
過去のヘミングウェイの作品は「否定のあとに開けられた空洞を、もっぱら肉体的情念で埋めていた」けれども、『老人と海』も確かに「肉体的行動にたよってはおりますが、それが精神的に肯定されることによって、倫理への通路が開かれている」として、福田氏個人も読後感は「心身の爽快さをおもえる」「剛気の文章」であると昭和28年に自ら翻訳した『老人と海』の解説を書いている。
 いやはや大学英文科でヘミングウェイを選択した評者としては初めて読んだ福田氏の批評だった。


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