毀誉褒貶の人だと評論家が言うけれども、乃木希典を悪く言ったのは司馬遼太郎くらいである。日本人の多くは、乃木将軍を尊敬している。かくいう評者(宮崎)の友人も愚息も乃木神社で結婚式を挙げた。
乃木を「かたくなにみやびたるひと」と表現する本書は、みやびの意味を「宮び」に求めて、清水文雄がジョホール・バルにて終戦直後に自決した蓮田善明を評して「みやびが敵を討つ」の譬喩に溯る。
清水と蓮田がのちの三島由紀夫に甚大な影響をあたえた経過は多くの人が知っているだろう。「みやび」とは「天皇神の御心と手ぶり」、つまり「みやびは国民の心に浸み透って血肉となって生きている」とする。
さて乃木が生涯、手放さなかった二冊の書物がある。
山鹿素行の『中朝事実』と吉田松陰の『孫子評註』である。ともに乃木は自費で出版し、天皇陛下にも内献し、のちの海軍大学校では教材として教えられた。
「『中朝事実』は、山鹿素行の赤穂流?中の著作で、素行の思想学問の集大成」である。「古来支那が中華と自称してきたが、日本こそ、文化的にも政治的にも中華と呼ばれる存在であり、そのことは、『日本書紀』『古語拾遺』『職原抄』などの古典に明記されていると主張し、それを展開論証した」
明治四十一年五月に「乃木は、自費で『中朝事実』を六百三十部活版印刷しています。そして、乃木の同年七月七日の『日記』には「両陛下へ中朝事実内献、引きつづき、北白川閑院有栖川各宮ニ内献スと誌されています」(47p)。
乃木は二十二歳の若さで少佐に抜擢されているが、吉田松陰の恩師、玉木文之進の直弟子であり、時代がことなったため松陰の謦咳に直接触れたことはないが、『孫子評註』に学んで、大いに触発された。
この『孫子評註』は松陰が野山獄中で書き上げ、久坂玄瑞にあずけた。
「生涯を通じ(松陰の)人生の指針となってきた兵学についての学問的遺書ともいうべきもの」である(72p)。
乃木は明治四十年に原書を自費出版し、さらに乃木の補足を書き込んだ『松陰先生孫子評註』をポケットサイズで活版印刷し、死後には海軍大学の教材ともなった(73p)
乃木の座右の銘とも言える両書は、戦後ひさしく顧みられなかった。
評者の『吉田松陰が復活する』(並木書房)のなかで、この二冊を取り上げたこともあるが、前者は中央公論の『日本の名書』シリーズと岩波の『日本思想体系』シリーズに入っており、後者は『吉田松陰全集 第五巻』に収録されていて閲覧が可能だ。
乃木は長州藩の下級武士の倅である。
吉田松陰は兵学に優れ、先師と仰ぎ見たのは山鹿素行である。したがって山鹿の『中朝事実』は松陰の座右の銘であり、軍学者として当然参考にした孫子を、克明に読解し、評論を加えたのが松陰の『孫子評註』なのである。
乃木希典は、この二冊を生涯手放さず、そして明治天皇に殉じた。
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