いま文藝評論畑で、もっとも旺盛な仕事をされる冨岡氏の近作評論集である。
意外な目の付け所とでも言おうか、こういう視角から現代日本の貧困政治状況、思想の荒野に切り込む意欲、その情念を率直に評価したい。
前作『千年のこる日本語へ』(NTT出版)でも、富岡氏は三島の遺した「日本文学小史」について触れたが、本書ではさらに突っ込んで同作品が論じられている。
さるにても標題である。
「吉本隆明のように戦前、戦中時に皇国少年であり、国家の戦争に殉じようとの思いを抱いていた者が、戦後自らが信じ込まされた国家や天皇制を根本的に疑い、問い直すことを生涯の課題と」したことに対して、三島由紀夫は「早熟な文学的才能によって浪漫的な詩や小説の創作をなし、戦時体制には強い違和感を持ちながら、敗戦後の日本の社会や思想にたいして鋭い反逆を示し、『天皇陛下万歳』を叫び自刃した」。
両者はしたがって対極からの出発であり、「『思想の可能性』をぎりぎりの地平から問い直したのである。それらはまさに危機の時代の産物であり、『最後の思想』とでもいうべき緊張と起爆力をもった創造的言語活動であった」と冨岡氏は総括する。
ところが、吉本は三島の自刃に強烈な衝撃を受けて次のように正直に書いた。
「これは衝撃である。この自死の方法は、いくぶんか生きているものすべてを『コケ』にしてみせるだけの迫力を持っている(中略)。わたしにはいちばん判りにくいところでかれは死んでいる。この問いに対して三島の自死の方法の凄まじさだけが答えになっている。
そしてこの答えは一瞬『おまえはなにをしてきたのか!』と迫るだけの力をわたしに対して持っている」
さらに吉本は次のように言うのだった。
「真の反応は三島の優れた文学的業績の全重量を、一瞬のうち身体ごとぶつけて自爆して見せた動力学的な緩和によって削られる。そして、これは何年か後に必ず軽視することの出来ない重さであらわれるような気がする」(1971年二月『試行』32号)。
評者(宮崎)は、この吉本の言葉を知ったとき、事件直後に保田與重郎が書いた激甚なる文章を思い出した。
「三島氏の事件は、近来の大事件といふ以上に、日本の歴史の上で、何百年にわたる大事件になると思った」(『天の時雨』)
つまり全共闘のカリスマ的存在だった吉本が、三島を評価し、やがて「転向」を表明し、さらには反・反核の狼煙を上げて、胡散臭い左翼と訣別した。反・反原発の旗幟を鮮明にして平成二十四年に去った。
まじめに吉本を読んできた旧左翼、旧全共闘は吉本の事実上の転向に茫然となったのではないだろうか。
この両者の対比を文学史的観点から解きほぐしながら、富岡氏は両者の思想的核心部へ迫った。
ところで評者(宮崎)は吉本隆明をまじめに読み込んだ経験はなく、それは世代的に全共闘や全学連という暴力がキャンパスを支配し、学問の自由を破壊していたおりに、吉本が彼らの教祖的存在であったことからくる一種の嫌悪感、胡散臭さに起因する。同列に評者は清水幾太郎をまったく信用していない。偽装転向なのか、文壇の風向きを商業的に読んだか、『核の選択』などと清水が二十年遅れで言い出したおり、じつに不快だった記憶が蘇った。
したがって吉本が次のような発言をしていたことも、本書を通じて初めて知った。
『三島由紀夫の快挙は、現在の政治的な情勢論でいけば、時代錯誤にしか過ぎません。しかし、歴史的根底からみてゆけば、なかなか容易成らざる問題である』(対談集『どこに思想の根拠をおくか』巻頭インタビュー)。
冨岡氏はかくまとめる。
「三島由紀夫の自刃は、吉本にとって自らの思想と観念力が根底から問われた事件であったと思われる。その後の吉本の思想的な軌跡と、老いという生理的自然的な過程のなかで、彼の世界観と人生観がどうように変化していったか」
この吉本に比べると村上春樹のポストモダン文学は軽すぎるとも示唆している。
さきの『千年残る日本語へ』といい、今度の新作といい、冨岡氏は文学論の荒野のなかに奮迅しつつ、重厚に爽やかに重いテーマに挑みながら、その膂力をつけてきた。本書は、その一つの表れであろう。
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